瞑想・冥想 冥いのがよろし

同じ言葉を使っていても、そこに込められている意味や定義は人それぞれ違ったりします。
「瞑想」という言葉についてもそれはいえます。
一般的な辞書には、「瞑想とは、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすこと。」とあります。
つまり、冥・瞑という字を「目を閉じる」という意味で説明しています。

最近は、そういった一般的な意味とは別の意味で、冥・瞑という字のことを思うようになりました。

 冥という字は「くらい」とも読みます。
 「くらい」と読む漢字には、暗い、昏い、闇いなどがあります。意味としては、光が少ない、ものがよく見えない、くすんでいる、気持ちが沈んでいる、希望がない、乏しい、愚か、未開といったマイナスな意味で使われることが多いです。
 
 しかし、最近思うのは、はたして光が少ないと、ものがよく見えなくなるだろうか、ということです。確かに光を当てると、そこはよく見える、そこだけはよく見えると言ってもいいかもしれません。よくみえると同時に、光のあたっていないところは、かえって見えづらくなるということです。
 
 私は山の中の一軒家に住んでいます。懐中電灯なしで屋外に出なくてはならないときもあります。そういうときは、明るい部屋から出たときほど、家の周りがよく見えなくて、薄闇の世界が見えてくるのに時間がかかります。

最近私は、人間の意識や理性というのはスポットライトのようなものではないか、と思うようになりました。光の当たっているところはよく見えているけれど、光のあたっていないところはかえって見えづらくしているのではないかと。光の当たっているところだけを「自分」「わたし」「自然」「生命」「神」と思い込んでいるのではなかろうか。わたしとわたしを包む世界の間には、はっきりした境界線はないのだろう、と。
それで瞑想・冥想とは、スポットライトの灯を消すこととなります。冥さに慣れてくると、知られざる世界が遠く広く目の前に、耳の奥に広がってきます。