自戒

アクエリアン革命―’80年代を変革する透明の知性 Aquarian Conspiracy 著者 マリアン・ファーガソン 発売日: 1981/11

という本が約30年前に出版されました。

まだ読んではいないのですが
< 古い社会の規範を脱し、新しい考え方に目覚め、心の変革を成し遂げた個人があちこちに生まれ、互いに知り合うことはなくとも、目に見えない連帯となって拡がり、やがて世の中全体を変革していく。 
水瓶座(アクエリアス)に象徴される透明な知性をもって、自分の周りを少しずつ変えていこうとする個人個人が、期せずして共謀し、組織・権力を超えて、世の中全体を変革していく>と書かれているそうです。

読んではいませんが、私は1954年生まれなので、1970年代1980年代の「水瓶座のムーブメント」は、少年期、青年期の真っただ中で味わいました。
 
 アクエリアン革命でインターネットを検索すると、
松岡正剛の千夜千冊『意識の進化と神秘主義』セオドア・ローザクもヒットしました。
 
< このローザックの推理は当たっている。温かい理解者になろうともしている。
 しかし、必ずしも新しい推理ではない。なぜなら、それらはいずれも大乗仏教や中世の地中海ユダヤ人やラファエロ前派らがやりつくしたことの"解凍"にすぎないようにも見えるからである。つまり、水瓶座の世代はこれほどの理解者を得ても、なおその特徴が過去の遺産の「統合」にしか見えないという、そういう特徴の中に泳ぎすぎたのである。
 おそらくかれらはあまりに並列処理に流れすぎて、「編集のフォーマット」を欠いたままになっていたのではなかったか。同時代を日本で送った者として、このことをぼくも自戒している。>
 
 実際は、アクエリアン革命とは今がその真っ最中なのでしょうが、「並列処理に流れすぎて、編集のフォーマットを欠いたままになっていた」ということも感じます。
 
 私がひとつとして思い当るのは、ブレスワークです。あるいは活元運動。あるいは瞑想(特に動的瞑想)。
 
 ある特殊な呼吸をすることによって、日常とは違う意識が訪れ、最初は今まで味わったことのない体験に衝撃を受けるのですが、まさに「もっともっと」と並列的な探求が始まってしまったりします。
 
 ある日、たまたま行ったデパートの地下食品売り場で、今まで味わったことのないフレーバーティを試飲し、とろけるようなおいしさを味わいます。お金を持ち合わせてなくて、次の日デパートにやってきます。しかし、昨日の売り場が見当たりません。一生懸命探します。やっと探し当て買います。しかし、茶葉だけではお茶は飲めません。更に探し回り、探し回り疲れ果て、階段あるいは売り場案内板を見つけます。テーセットを買って帰ります。家に帰って飲んでみると、最初のんだお茶とは味が違うのです。さて、また探し始めるのです・・・・・・・という感じです。