天秤棒

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」
(論語・朝聞道、夕死可矣)
という言葉に、青年期の頃は憧れていた
実際、大学は受かったものの、通学せず、
道を求め、リュックを担いで、放浪した
        
と同時に、真理・道は、聞くだけでは駄目で
それを生きてこそ道ではないかと言う思いもあった
           
今、二宮翁夜話を読みつつ
<夕に死すとも可なり>は、「悟道」だと思う
           
悟道に至ったなら、やはりそれを生きることだ
いや、凡人は、悟道にいたろうとすれば、多くの月日が流れていく
それも、他の命に生かされつつ
            
人生は、天秤棒に担がれた水桶の水のようなものだと思う
生きれば、歩けば、あっちに揺れ、こっちに揺れるのが人生だ
水桶いっぱいを理想とすれば、担げない、歩けない、こぼれてしまう
                
ところが、親も子も、担ぐ前に、歩く前に
水桶にいっぱい水を貯めようとする
貯める努力で一生が終わってしまったりする
それで、「道」が廃れてしまう
            
君よ、いっぱい貯めたら、担げないよ、歩けないよ
歩き始めたら、揺れるのが人生だ