「自然」という言葉や映像について

 私たちは、日常生活において、「自然」という言葉(や映像)をよく使います。例えば「豊かな自然」「自然保護」「自然経済」「自然エネルギー」「自然体」「自然生活」「自然治癒」「自然科学」「自然食」など。

 
 よく使われる言葉でありながら、その言葉に込められた意味は人によって、場面によっていろいろです。例えば、毎日欠かすことのできない食糧のことを「自然の恵み」いいます。と同時に、大災害をもたらす地震、台風などを「自然災害」「自然の脅威」といいます。さらに「自然保護」といったりします
 「自然」とは、人間に恵みをもたらし、同時に脅威となり、それでいて保護するものなのでしょうか?
 
 自然そのものと人間を比べたとき、自然のほうが人間よりはるかに大きいです。自然のほんの一部分である人間が、自然そのもの、あるいは自然のすべてを観察したり、コントロールしたり、定義づけたりすることはできません。
ですから、私たちが「自然」という言葉(や映像)を使って会話や思考をするとき、円滑な意思疎通のためには(たとえ客観科学のデータに基づくものであっても)その言葉に込められている意味は、人間の側がとらえたほんの一部分であることの自覚が大切であるように思っています。
例えば、ガイドブックや案内パンフレットに紹介される自然の画像・映像は、一年のうち穏やかな限られた天候のもとで撮ったものがほとんどです。

そして現代日本人が「自然(しぜん)」という言葉を使うときの自然は、明治時代に西周が「nature」という言葉の訳語として使い以後定着した言葉でしょう。西周がnatureの訳語に充てる以前に、じねん(自然)という言葉があって、それは現代人が使うしぜん(自然)とは似て非なるものであることも、知っていたほうがいいように思います。(法然親鸞の言う自然法爾)

また「自然」に相当する外国語には、natureだけでなくphysis(古代ギリシャ語)があり、physisのほうがより「自ら生成する」という意味あいが強いということも知っておいていいと思います。
観察対象やコントロール対象、資源としての自然ではなく、人間がとらえきれない自然をいうとき、natureよりもphysisを使うようです。
「母なる大地 父なる空(天)」という言葉がありますが、実感をともなってその言葉を使っているかどうか、実際は観察の対象、資源、生育環境としてのみ見ていないか、改めて振り返ってみることも大切と思っています。