子どもにとって、学校ってどんなところ?

子どもにとって、学校とはどのような場になっているのでしょう?
「友達に久しぶりに会えてうれしい」と、夏休み明けの教室でインタビューに答える子どもの様子が、毎年テレビで放映されます。学校は、家庭とは違う世界を子どもに開きます。しかし、その「世界」では、友達に出会えるだけではなく、その友達が「競争相手」にもなり、時には「いじめる人」にもなります。中国の作家魯迅は、学校は「国家のための人材開発をする場」であるといいました。

 確かに、永山則夫が中学を卒業し「金の卵」として上京した1960年代、時の政府や経済界は、「優れた人材を早期に発見する為」として中学校での「全国一斉学力テスト」の実施を発表しました。このテストに対しては全国で反対の声が上がりましたが、その後刑事処分、行政処分、裁判闘争が生まれました。(現役の先生で、この歴史を知っている人はどれくらいいることでしょう。)

 学力テストについての意見は、色々あると思いますが、学校が教育基本法に言う「人格の完成を目指す場」だけでなくて、時の社会情勢を反映していることは、我が身を以て味わいました。
 偏差値で人間を判断してしまう弊害とは別に、テストによる「哲学的弊害」を感じています。小さな簡単なテストであっても、毎日受けているうちに、「問いかけ」に対して、必ず「唯一絶対の答え」があり、「時間内」にその唯一絶対の答えにたどり着かねばならぬ、と思い込んでしまう弊害です。

 ひとが実際生きる上では、問いかけ考え続けても、直ぐには答えの出ないこと、唯一絶対とは言い切れないことの方が多いように思うのです。例えば、「私達は、何処からきて何処へ行くのか?」とゴーギャンが問いかけた問い、「死ぬとはどういうことか?」という問いかけなど。
 急いで、答えを出したり、ひとつの答えに固執することによって、私達の苦しみは生まれているように思います。