悲しいときは踊りましょうよ

アドラー(1870- 1937)オーストリア精神科医、心理学者、社会理論家
モンテッソーリ(1870‐1952)イタリア、医学博士、幼児教育者、科学者、フェミニスト
ヘレン・ケラー(1880‐1968)
チャップリン(1889‐1977)
ヴィゴツキー(1896- 1934)旧ソビエト連邦の心理学者
ピアジェ(1896‐1980)スイスの心理学者
ベイトソン(1904‐1980年)イギリス生まれ、アメリカ合衆国文化人類学・精神医


 中島らも原作 マキノ雅彦監督「寝ずの番」を観た。
 評価というのは主観だから、そりゃあ色々あると思う。
 
 だから、評価ではなく、関連して思ったことなどを書こうと思う。
 
 粋なユーモアというものを感じた。作品の中だけでなく、実際生活の中で、こういう粋なユーモアを感じることが少なくなっているようにも思った。
 
 自分が死んだとき、寂しいだけの通夜とか、儀礼的な通夜にせず、こんなユーモアのある悲しい通夜であったらなあと思うが、それは自分の生き方次第だろうと思った。
 
 同時に、つれあいが死んだとき、そんな通夜にできるかなあとも思った。
 
 笑いを取ろうとするのが見え見えだと、全然面白くない。
 一生懸命で、真面目で、誠実で、それでいてどこか「抜けて」いるのが面白い。
 
 つれあいがもし先に行ったら、家族と友人と何を語るだろう。
 
 日置川町でも原発誘致推進の話があったとき、講演会場から出てきた町長さんに、私は那智勝浦町から来ましたといって、原発を誘致しないでと呼びかけた。すると、当時の町長は、つれあいに言い放った。「あんたは、この町の人間でも隣町の人間でもない。」つれあいは、いった。「放射能は、町の境を越えて飛んできます。」
 そんなエピソードのかずかずだろうか。
 
 自分が先に行ったら、少しあとに残された人たちは、何を語り合うのだろう。
 
 傷つけてしまって、もう謝りようの無い人もいる。御免なさい。
 
 自分の気づいていないところで、深い影響を与えた人もいるかもしれない。
 
 親以上につれあいと暮らしている時間の方が長いが、自分はつれあいの一部しか知らないし、理解できていない、またつれあいもまたそうだろう。
 
例えば、「学習する組織」とか「アージリス」「ヴィゴツキー」「あやかし」「意味論・語用論」「認知運動療法」「モンテッソーリ」とかの話は、いつも忙しそうなので、順序だって話ししたことがない。
 
 明日の夜は、年に一度か二度くらいしか会えない大切な友達が来るので、ゆっくり語ることにしよう。