想定内と想定外ということについて

想定内と想定外ということについて
 
「それは想定内の出来事だ」とか、逆に「それは想定外の出来事だ」と言ったりしますが、そもそも私達は、いったいどういうことがらについて想定できるのでしょうか? 「想定する」とはどういうことでしょうか?

 私たちが日常の中で使う「想定」という言葉と、工学上でいう「想定」とは同じではないようです。更に、その違いが分からないまま「工学上でいう想定」も「日常で使う想定」も、マスコミはただ「想定」として使います。
 
 1896年 明治29年に明治三陸地震が発生し、その時、38.2mの津波が記録されています。1933年3月3日に、昭和三陸地震が発生し、その時には、28.7mの津波が記録されています。
 工学者たちは、この津波のことは知っていたでしょう。
 工学上でいう想定とは、「予想はするが、コストのことなどを考えて、設計条件としては考慮しない」という意味で使われているようです。

 「理念」と「現実」という点から考えてみると、

 「人間はやがて必ず死ぬであろう」と想定することができます。しかし、個々の人がどのような最期を迎えるかは、もともと想定外なのではないでしょうか?

 例えば、末期がんと宣告され、全身の症状や細胞の変化を観察することによって、おそらくの余命を想定することはできるでしょう。しかし、その人がどのように死を迎えるかを想定できるのでしょうか?
 
 24時間たてば、東の海のほぼ同じような位置から太陽が昇ることは想定できても、朝陽が昇る付近の水平線に、雲が出ているか出ていないかは、想定が難しいのではないでしょうか?
 
 つまり、我々想定できるのは、理念の世界であって、個々の具体的、現実的な出来事は最初から想定が難しいのではないでしょうか?
 
 空を雲が流れていきます。「西から東に風が吹いているから、雲も東に流れていくだろう」と予測はできても、その雲の姿形が1分後どのような形に成っていることについては、想定が難しいのではないでしょうか?
 
 高等数学を学んでいる人や詩人なら、こういうことをうまく表現できるのかもしれません。

医学の世界には EBNとNBMという概念があります。

< EBMは、「根拠に基づく医療」と訳されるもので、1990年代初頭に提唱される。統計的に実証されたデータを根拠として治療を行うアプローチ。例えば精神分裂病に対しては、精神分析よりも薬物療法の有効性が実証されている。しかしEBMは、普遍性を重視するあまりに患者の固有性を軽視してしまう危険を伴う。
一方NBMは、「物語と対話に基づく医療」と訳されるもので、1990年代後半、医療・医学において提唱された概念。新たなパラダイム・シフトをもたらすものと考えられている。NBMは、社会構成主義的な観点を取り入れたもので患者を理解するために、客観的事実だけでなく、物語として語られる主観的世界をも含めた全体性を重視するアプローチ。 >

 確率のことを想えば、マグニチュード9.0の地震が発生するということは、統計的に低い確率で、想定外だった(としたの)かもしれません。
 しかし、どんなに確率が低くても、固有的に「O」であると断定はできないでしょう。
 ( 最初に述べたように、明治三陸地震津波では、38.2メートル、昭和三陸地震津波では、28.7mが記録されています。 )
 
 高い確率、低い確率と言っても、そこには高い低いを判断する人間集団の固有性、物語性があったと思うのです。
  
 物語性を排除し、客観的なデータに基づき想定したように見えていても、実はなんらかの物語(例えば物語などいらないという物語)(可能性はあるが、コストのことを考えると考慮に入れることはできないという物語)に従って想定していたように思います。
 
 「人間が想定できるのは、抽象化された理念の世界であって、現実世界全体のことは一秒先のことでも元々想定不可能」「現実世界全体は、詩的魂によってかろうじて<物語る>ことができるのではないか」「この世界を捉えるにあたって、物語性というものを低く稚拙なものとして見すぎてきた、自覚が薄かったのではないか」と私は、未熟な頭と言語機能で思うのです。


ウィキペディア
原子力 - 神話にちなみ、しばしば「(第二の)プロメテウスの火」と喩えられる」とあります。
 プロメテウスとは、「pro(先に、前に)+metheus(考える者)で、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。」ともあります。