見返りを求めない 布施 ボランティア 献身 人生

見返りを求めない 布施 ボランティア 献身 人生
 
 ウィキペディアには
<布施(ふせ)は、梵語では「檀那(旦那)ダーナ」といい、慈悲の心をもって、他人に財物などを施すことで、六波羅蜜のひとつである。>
とあります。
 
そこで更に六波羅蜜を調べてみると
六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、ブッダを目指す菩薩が修めなくてはならない、6つの実践徳目のこと。菩薩は、この六つの波羅蜜行の徳を蓄積して、遠い未来の生において一切智の正等覚者として無師独悟する。
1. 布施波羅蜜 - 檀那(Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のgiveに相当する。>
と書いてあります。
 
布施はまた 三輪清浄の布施、三輪空寂の布施といわれたりします。
あるHPには、
<「其布施といふは貪らざるなり」真の布施は、三輪清浄または三輪空寂の布施といわれて、施者・受者・施物の三輪が清浄であり、空寂となっていなければならないとされます。つまり施者は受者に対してこれは価値ある品物なんだ、わたしがこうしてっやったというような恩をきせないこと、また、その報果を期待するような、交換条件による布施であってはならないのです。>

<布施の理想的な状態を「三輪空寂」(さんりんくうじゃく)といいますが、施す人、施される人、授受される三つが共に清浄になった状態を示すものです。施しても施したという思いを起こさず、為しても為したという思いを起こさない布施行が最も清浄にして優れたものであるというわけです。何かの見返りを期待するのであれば、それは布施ではなく先に申しました取引になってしまいます。>

<布施はすべからく三輪清浄(さんりんしょうじょう)でなければならないということです。三輪とは、施す人と受ける人と施物の三つを言います。清浄とはその三つが空(くう)であり、無相であるということです。空であり無相であるということは一切の「こだわり」や「とらわれ」が無いということです。「あの人に施してやった」「これだけのことをしてやった」という思いは「こだわり」であり、何らかの見返りや報酬を期待する気持ちなのです。布施とはすべからく「喜捨」でなければなりません。喜んで捨てる気持ちです。捨てる気持ちには後に何のこだわりも残りませんからね。

だから真の布施には「善行」という意識すら有ってもならないのです。「ああ今自分は善いことをしているな」というその意識がすでに「こだわり」だからです。このように三輪清浄という布施の精神はたいへん深遠なものですが、この価値観こそ精進する人が
求めるべきものなのです。それがあってこそ浄土の世界が出現するのです。>
 
と書かれています。

仏陀に成る為の修行としての六波羅蜜、その一番目としての布施」ではなく、
布施行そのものが、人生の意義であるようにおもいます。
 
 一度読んで以来、心から離れない小説があります。
 三浦綾子さんの「塩狩峠」です。

アマゾンの紹介には
< 結納のため札幌に向った鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた…。明治末年、北海道旭川塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、愛と信仰に貫かれた生涯を描き、人間存在の意味を問う長編小説。>

ウィキペディアには

< 1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠区間に差し掛かった旅客列車の客車最後尾の連結器が外れて客車が暴走しかける事故がおこった。その車両に乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)職員の長野政雄(ながの まさお)が、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止めた。下敷きとなった長野は殉職したが、これにより乗客の命が救われた。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くに顕彰碑が立てられている。>
とあります。