朝、一杯のコーヒーから。たかがコーヒー、されどコーヒー

コーヒーを飲みながら、コーヒーを定義しようと思いました。

コーヒーのことを、Wikipediaには、
「コーヒー(珈琲・coffee)は、コーヒー豆(コーヒーノキの種子)を焙煎し挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料のこと。抽出前の粉末や粉砕前の焙煎豆も、同じくコーヒーと呼ばれることもある。」
と説明しています。
 
質的な客観的な定義ではこの通りだと思います。
 
でも、「ああ、コーヒーが飲みたい。」と誰かが言った時の「コーヒー」を定義しようとすれば、それはとても難しいものとなります。
 
若い頃の話ですが、
隣町にコーヒーが美味しいと評判の喫茶店がありました。
その評判を聞いてから、数年たったある日、遠方から来たお客さんと一緒にその店に行きました。その時出されたコーヒーは、とても申し訳ないくらい、美味しくないコーヒーでした。確かに「コーヒーをお願いします。」と注文し、「コーヒー」が運ばれてきましたが、それは「コーヒー」ではなかったということです。
 
私はコーヒーより紅茶が好きです。コーヒーはめったに飲みません。しかし、次女が持ち帰ったハワイのコナコーヒーは香りもよく、ここ最近飲んでいます。

本来が紅茶党なので、美味しいコーヒーの淹れ方は知りません。ただ、私用に一人分だけ淹れることについては、私なりの淹れ方を見つけました。
 
それが、二人分、三人分、四人分を淹れるとなると、全然違った味になってしまいます。
 
それだけではありません。袋を開けた時に淹れた時のコーヒーと、残量が少なくなってきた時のコーヒーでは味が違います。袋の中で酸化が進んだのでしょう。
 
さらに、私自身の体調、求める動機、心身の姿勢、環境、時間によっても違うでしょう。
 
たかがコーヒー、されどコーヒー。
 
コーヒーという言葉の代わりに、仏教、私、瞑想、虹という言葉を入れても、同じことが言えます。
 
コーヒーを飲みながら、永遠不滅の、誰にとっても同じ実体の存在は、あるともないとも言えないように思うのです。