「途方に暮れる」と「途方に眩れる」

「tohounikureru」と入力し検索してみると、
ほとんどが、「途方に暮れる」と出てくる
 
「途方に暮れる」という文章に対する私のイメージは
<進みたいのに、もう辺りが暗くなってしまって、前に進む道が見えない>
<進もうにも、道を見出せなくて進めない>
というイメージだ。
 
「途方に眩れる」という表現もあることを知った
「眩れる」は、眩しくて目を閉じるということだろう
だから「途方に眩れる」という文章への私のイメージは
<進もうと思うのだが、色々選択肢がありすぎて選べず、前に進めない>
<道はあるのだが、判断しかねて前に進めない>
というイメージだ。
 
今、日本の多くの市町村、国民が、「途方にくれている」ように思える。
 
そんな中で、私は今、内村鑑三と前田正名のことを思っている。
 
時代が明治に移り、多くの人々が国の将来、郷土の将来、家族の将来を思ったことだろう
そして、「殖産興業」を思ったと思う。
 
松方正義が選んだ殖産興業は、「国家財政を使って工業を起こし、それを特定の政商に売り渡し、それを保護すること、つまり大資本工業による殖産興業」だった。
前田正名は、「“松方デフレ”による地方在来産業の没落を目の当たりにし、日本に固有の地方在来産業を振興し、それを輸出産業に育てること。地方中小工業・農業優先の近代化を主張した。」「今日の急務は国に国是(こくぜ)を、県に県是(けんぜ)を、郡に郡是(ぐんぜ)を定むるにあり」と述べた。

明治政府の中枢が選んだのは前者
 
さて、今私達は、途方に暮れているのか、それとも途方に眩れているのか
 
「暮れている」という表現は、私は目が開けているが、見えないと言っている。
「眩れている」という表現は、私が目をつぶっているから見えない、と言っている。
 
 目をあけること、今目の前のことを観ること、いつもそこから始まる。
 
 目をあけると、やっぱり、眩しい!!