洗濯女 これから私はどう生きるんだろう

 「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
  おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に出かけました。」
 
 という話を、日本人のほとんどの人は子供のころに聞いたと思います。
 
 洗濯と私達の日常は切り離すことができません。
 ですから、そこには無限の物語が生まれます。
 
 私は母の手にひかれて、川に洗濯に行った記憶があります。
 
 30年ほど前、バリ島の川で、洗濯している姿を見て懐かしく思いました。
 
 洗濯という概念はいつ生まれたのでしょう。
 一年中、麻の着物を一着着たきりの生活では、洗濯しようがありません。
 
 生活が豊かになり、着替える余裕ができて、洗濯することができます。
 
 分業が進み、貧富の差が生まれ、貧民の層が洗濯を受け持つことになります。
 
 洗濯女という言葉は知っていました。
 しかし、その具体的なイメージがあった訳ではありません。
 
 「歴史の中のウィーン」都市とユダヤと女たち 増谷英樹著 日本エディタースクール出版部 という本の中で、少しイメージが膨らみました。 

「自由な女性市民」を象徴する職業だった時期もあるようですが、洗濯業が機械化される中で、その仕事も低賃金労働となり、副業なしでは生活できない職業になったようです。

 今から十年ほど前、男女共同参画をテーマにした講座に参加したことがあります。
 その当時で、「今結婚して専業主婦で居れるのは、五組に一組です」と言っていたように思います。また、「一つの職業だけでなく、いくつもの職業につく時代になるでしょう」と講師先生は言っておられました。
 
 先ほどの、歴史の中のウィーンの中でこういう記述があります。
 
<革命前の1840年代には、ウィーンの繊維工業は国際競争の波に曝され、新しい機械を導入し、労働者を解雇していく工場が後をついだ。解雇された労働者のなかには、女性労働者が含まれていたのは当然である。彼女らに残された道は三つあった。>(191頁)
 
<一つは、人生の過酷さから死をもって逃れる手立て。>
<二つ目は、売春婦に身を落とし、日々の糧を手に入れる道。>
<そして、第三の道は、革命に参加し、自らの解放を戦いとることであった。>
 
 時代と状況が当時と今とは違うとはいえ、共通することもあると思っています。
 
 結婚は人生の墓場だ、とか、主婦は姿を変えた売春だとかいう過激な意見を言う人もいたりします。 先日、北タイの山岳民族の本を読んでいたら、やはり、貧しくて、副業として売春をしていたり、麻薬の運び人になっている人々のことが出ていました。
 
 企業戦士という言葉があるように、仕事についていても、実は傭兵の心境のような人もいることでしょう。
 
 富の偏在する機構がある限り、繰り返されると、私は思っています。
 
 相手を欲望達成の道具とするのなら、主婦・主夫は、売春婦・夫かな、と思ってしまったりします。