南無阿弥陀仏 一遍・エックハルト・ブーバー

一遍上人語録 岩波文庫 大橋俊雄校注

「 七八 又云、臨終念仏の事。皆人の死苦病苦に責められて、臨終に念仏せでやあらむずらむとおもへるは、是いはれなき事なり。 中略  只今、念仏申されぬ者が、臨終にはえ申さぬなり。」
     
「 六一   臨終にはじめて捨つることはかなはず。平生の作法が臨終に必現起するなり 」
 
 かつて、南無阿弥陀仏の名号を唱えることを、只今一瞬一瞬を、臨終と思いながら過ごすことと捉えていた。いわゆる一期一会。
 
 人生を川の流れに例え、石清水から始まり、小川がやがて大河になって、大海に還るというイメージで時と人生の流れを見ていた。そして、突然やってくるかもしれない死を滝のようなイメージで捉えていた。海にたどりつくまでに、突然滝が現れるかもしれない、だから一瞬一瞬を大事に生きよ、やってきたら、あわてず身を任せよ、ということを心に刻むために南無阿弥陀仏と唱えると。
 
 ところが、エックハルトやブーバーを知ってからは、南無阿弥陀仏の名号を唱えることの意味が違ってきた。
 
 先ず時間の捉え方だが、自分が他の人々と川のように流れるのではなく、自分は川の中に立っている杭のようなもの。時が未来から流れてきて、過去へ去っていく。だからこそ今が始まりであり臨終である。いつの日か、臨終とか滝とか大海とか死とかにたどりつくのではなく、神性のない暮らし、仏性のない暮らしはそのまま死であると。
 
 だから、一遍上人の言うように、臨終の時その時の環境・状態に作用されて、私は信心・平常心を失うのではないかと不安になるのは、念仏を申していないから、あるいは自分が念仏を申すと捉えているからということになる。
 
念仏を申すとは、今の自分の思いでは、「我−それ」の関係ではなく、「我−汝」の関係で生きるよう気をつけて生きること。