論理階型 セーターを例に

論理階型 セーターを例に
 
今日は朝から、衣替えをした
ついでに、部屋全体の掃除と整理をした
 
整理をしていて、以前に書いた冊子が出てきて読んだ
 
以前にブログのどこかに書いたかもしれない
セーターを例にした「論理階型」
 
「もの」と「こと」
普通、セーターは、「もの」と「こと」なら、「もの」に分類する
 
その冊子で書いたことは、ものとことは、同列ではなく
次元が違うということ
ものをベースにことが起こり、
ものの見方を変えれば、ものはことだったりする
それをセーターに例えた
 
セーターと言えば、普通もの扱いだろうが
じっくり見てると、毛糸や編み棒や人によっておこされた「こと」だともいえる
 
更にじっくり見て、毛糸も、動物の毛や人によっておこされたことといえる
 
人間(私)をものとして、社会(対人関係)ということが生じている
色々な臓器をものとして、「私」ということが生じている
 
毛糸は、ものであったり、ことであったりする
セーターはものであったり、ことであったりする
私は、ものであったり、ことであったりする。
 
ややこしいのは、毛糸とセーターが、同じく、ものであると普通は思うことだ
 
編み物店の商品としては、毛糸もセーターも、ものだろう。
しかし、実際は、毛糸を買おうか、セーターを買おうかという選択は少ないと思う
 
毛糸を買う目的と、セーターを買う目的が違う場合がほとんどだろう
 
こういう思考と、日常とどう関係するか?
 
毛糸やセーターなら、わかりやすいが、心とか魂となると話がややこしくなる
 
一つには、私が思考において、整理しやすくなるために、論理階型を考えている
 
例えば
行動療法の考えと、家族療法の考えとの融合を考えている
 
要素論と全体論は対立しているとはとらえなくて
全体論と要素論は、次元が違うのだと、捉えようとしている
 
看護学は、近代西洋医学の補助ではなく、次元が違うのだと捉えようとしている
 
「生」と「死」を要素として、さらに大きな「メタ生」が生じていると捉えようとしている
 
私の接骨院では、赤ちゃんや幼児と一緒に訪れることを当たり前としていて
他の患者さん達も、診察台の周りで遊んでいる子供に対して、当然として受け入れている
 
子供たちをそばで見ていて、言葉を獲得していく過程が、今更ながら不思議で、感動している
 
誰かがこんな例えを言っていた
小さな小さな一粒の朝露も、天空を映す