予定と苦しみと目的とメタ目的と仮想的目標と羅針盤

私達は、やりたいこと、やらねばならぬことがあって、予定を組んで、実践する
 
ところが、人間界も、自然界も、私のために動いているわけではないので
私の都合通りには、ことが運ばない
 
ほんの些細なこと、些細な予定であっても、
中断されたり、思うとおりにいかなかったりすると、いらいらしたり、苦しんだりする
 
ほんの些細なこととは、
例えばガス湯沸かし器がうまく点火できなかったり
DVDを見ていたり、読書中に電話がかかってきたりすることだ
 
予定通りことが運ばなくて、いらいらする人(自分)と
臨機応変に対応できる人(自分)がいる
 
その違いはどこにあるのだろうか?
 
予定通りにことが運ばなくとも
目標を見失っていなくて、目標達成の方法にこだわらない人は、いらいらしないといえる
 
ところが人生には、目標そのものを変えねばならないときもある
 
そんなときにも、落ち込む人(自分)と、落ち込まない人(自分)がいる

目標を変えるとは 
受験勉強中に電話がかかってきたというレベルではなく
受験したものの、不合格だったというレベルだ 
 
そのような場合であっても
目標が達成されなくとも、
その目標の一段上のレベルの目標、メタレベルの目標を見失っていなくて
そのメタ目標の達成方法にこだわらない人は、いらいらしないといえる
 
ところが、そのメタ目標をも変えねばならぬ場合がある
 
例えば
何があっても、どんな状況になろうとも、日々丁寧に暮らすというレベルではなく
老いて、死んでしまう、そのことがひしひし感じるというレベルだ
 
もう一つ上のレベルの目標を見失わないことと
あらゆる目標は、仮想であることと自覚することは、ほぼ同義語になる
 
メタ目標のレベルから観れば、目標は仮想的だし
メタメタ目標から観れば、メタ目標もまた仮想的だ
 
如何にして、もう一つ上の目標から物事を見れるようになるかが大切になる
 
だから、全体論と要素論は、同列ではなく
全体論の視点ほうがレベルが上にある
 
要素論のほうから見れば、要素論と全体論は対立しているように感じるが
全体論から観れば、レベル(論理階型)が違うので、対立などしていない
 
如何にして、学習1から、学習2、学習3へのジャンプをするか
如何にして、それを伝えるか