世界像、世界認識

ともすれば、私達一人一人が、別の世界像、世界認識をしているということを、忘れてしまう
 
忘れてしまい、「どうしてそのようなことを考え、どうしてそのような行動にでるのか?」と非難したりしてしまう。
 
世界像、世界認識が違うのだから、その世界に対しての働きかけは、私とまるっきり同じはずがない
 
世界像、世界認識は同じではない、といっても、まるっきり別でもない
 
だから、ある面では話が通じ、共同生活を営むことができる
 
共通の基盤を確かめ合いながら、話し合って、語り合って
新しい地平を築くことができる
 
話し合い、語り合いになれていない人々は
自分の(世界像にもとづく)行動の正当性、相手の(世界像にもとづく)行動の不当性を、激しく主張する
 
私は私の世界像を、世界像と思っているが、
自分の世界像を、世界像と自覚していない友人は、離れていった
 
運命を共にしない友人なら、それも仕方なかろうと思うことにしているが
家族とかつれあいになると、じっくり語り合うことが大切になってくる 
といっても、家族やつれあいであっても仕方ない場合もある
 
ともかく、自分の世界像と相手の世界像は、
まるっきり別でもないが同じでもないことを自覚し続けること
 
そして世界像は、人間の中にあるのではなく、語りの中にあることを自覚すること
 
絵を描くというのも、ひとつの語り
語らずして、表現せずして、私のことをわかってよ、なんていうのは甘え
 
来春から、世界遺産、妙法山の山裾の一軒家で、お絵かきの講座を開き
語りあいのお手伝いをしようと思っている