どうせなら微笑みましょう

「生きていない」と「死んでる」は、
日常語ではほぼ同じ意味だけど
瞑想用語としては、同じことを意味しないと自分は思っていて
使い分けている
 
例えば、一秒とか一時間とか、物理的な時間は、
「生きていない時間」だとおもっている
「死んでいる」時間だとは思わない
 
昨日の言語学の用語に引っ掛けると
物理的な時間であっても、
人間が取り決めたテセイの時間だと思っている
 
年末が近づくと、「今年も後○日か」、とか「一年が過ぎるのって早いよね」
という感想がよく聞かれるが、
自分はそういう感覚があるのはわかるし、かつてそう感じたこともあるが
いまは、そういう感覚になることを選ばない
 
「時間感覚を選ぶ」
これは、一日をできるだけ瞑想的に生きようとしてわかる感覚だと思う
 
何か目標を定め、達成することばかりを考えているとき
それは死んでいるとはいえないが、生きているともいえない時間と、思う
かつて、「自己疎外」なんて表現をしたのが、それじゃなかろうか
 
時間は、一秒とか一時間とか、切り取ることもできないし、「今」を切り取ることもできない
いつも全体の中の変化していく「今」
というのもひとつの「テセイ」