生きる 理論負荷性 自覚 瞑想

哲学者を「哲・学者」と「哲学・者(哲人)」に分ける話は時々耳にします
同じことが、仏教学者と仏教者にも言えそうです
 
「観察の理論負荷性」という事柄があるのですが
その事柄を知識として知っていることと
自分の生活に当てはめることが一致しているとは限りません
 
観察の理論負荷性というのは、科学哲学領域で語られることですが
そもそもその科学や科学哲学の目的は、
科学者や科学哲学者の生活を保障する為にあるのではないと思います
 
「私が今ここで出来ることは何か?」を考える為の道具だと思っています
 
さてそこで、私自身を振り返ってみると
自分は自分の知っている理論や信念を基に、
ある事柄を観察し、判断しているのでしょう
 
ところが、自分がかけているめがねの色や度数の自覚があるのかというと
これが心もとない
 
一旦めがねを外し、外したままでは見えないから
また他のめがねをかけて、今までかけていためがねを見る
という意味での心もとなさだけでなく
 
「僕知っているものね」と思い込んでしまっていることだ
 
自分は赤いめがねをかけていると自覚したとしても
それだけでは
みどりのめがねをかけたときのことは知らない
 
めがねというと、実際のめがねを想像してしまうのも
またやっかいだ
赤だとかみどりと言うのもね