苦諦と偽解決行動  論理階型

文献(著書)は知らないのだが、
エーリッヒ・フロムが、
「仏教の四諦の中で、一番難しいのは苦諦だ」といっているらしい
  
本人の心は「楽」であっても、
その楽を貪っていては、実は「苦」は増幅しているのだが
本人は自覚が難しいということが第一点
 
第2点として 
家族療法、短期療法、あるいはシステム理論の中で
偽解決行動というのがある
自分が苦しみの中にいるという自覚はあるのだが
その解決の為の行動が、実は解決になっていなくて
むしろ、問題を維持している行動を偽解決という
偽解決なのに、そのこと(苦の増幅)に気づいていないという「苦」
 

相談室にやってくる人に対してなら
それは偽解決だと自覚してもらう方法がいくつかあるのだろうが
日常生活の中で、それが偽解決だと気づくのは確かに難しい
 
また、日常生活の中で、偽解決と自覚したところで、
今までの行動に変わる行動選択のビジョンがないと
実際に解決に結びつくことも難しい

相談室にやってくるというのは
システム論的、論理階型論的に言えば
今までの解決策と同列のメンバー的な解決ではなく、
更に上のクラス的な解決策を求めてやってきているともいえる
(もちろん、同列の解決を求めてくる人も居るでしょう)

ところが、日常生活の中では
「問題指摘による解決法は解決にならないのではないか」
という指摘自体が、問題指摘になり、パラドックスに陥る恐れがある

「物事には、クラスとメンバーの論理階型があるのだ」
ということが理解できていない人が案外多いようにおもう
瞑想も、この論理階型を自覚し、上位の視点から物事を見ることなのだけど
メンバーをとっかえひっかえすることを、瞑想と思っている人も居る

 
仏教の苦諦には、もっと深い意味があろうが
問題を指摘され、問題を自覚するだけで、次のステップへいける人もいるだろうが
多くの人は、問題を指摘され、例え自覚したとしても
右往左往してしまうのではなかろうか

それほど、問題指摘による問題解決法は、一般常識化している


無苦集滅道とも、同じ仏教は言うが、これも論理階型の話