「成長」することと「死ぬこと」についての中間メモ

「成長」という言葉について、いずれ丁寧に考えなくてはいけないときがくるだろう、とは思っていたものの、そのままにしていた。
 
今日の朝、瞑想していると、「成長」という言葉がやってきた。
 
まだまだまとまらないのだが、メモ程度にまとめることにした。
 
単純に考えると、「増殖」することが、成長のひとつの要素になるかもしれない。
しかし、植物にしても、動物にしても、単に増殖だけをしているわけではない。
 
例えば、受精卵が卵割するとき、増殖することだけが成長なら、桑実期の姿のまま、大きくなるだろう。
受精卵はやがて、分裂・増殖するだけでなく、分化?(正確な言葉を知りません)を始める。
外胚葉と内胚葉そして中胚葉に分かれ、それぞれから、皮膚や神経や消化管系や循環器系に分かれていく。
そしてある大きさになると、分割・増殖をとめる。
 
その変化には、単に増殖するだけでなく、「生命の文脈」があるということだ。
DNAとかRNAだけでなく、環境、重力といったものも、その文脈の表現に関係していることだろう。
 
もう一度単純に考えて、約3000グラム前後で生まれた赤ちゃんが、その体重を増やし、いろいろな能力を発現していくことを、普通成長という。
 
しかし、ただ単に体重や身長が大きくなること、立って歩けたり、しゃべることが出来るようになることだけを、成長とはいわないだろう。
 
やはり、「生命の文脈」を感じ取り、生命システムの中での自分の位置・責任を感じ取り、その責任を果たすことを成長というのではなかろうか?
 
私が、「植物や虫の名前を覚えない自然観察会」と、わざわざ名前を覚えないと言う題名で観察会を続けているのは、「生命の文脈」を感じ取ることよりも、自分の知識を増殖させ、自慢しようとする態度を厭うからだ。
 
成長はやがて「衰え」に代わる そして「分散」する 
生命たちはそのことを繰り返してきた
人間は、その過程を厭い、不安に思う
その不安を生じさせているものとはなんだろう?
 
一つは「主語」+「述語」という言語体系を使ううちに生まれる「妄想」だろう
かといって、人間は、言語体系を捨てるわけには行かないだろう
 
言語体系の出発点は、「これ」、「それ」という直接的な体験だとおもう
これ、それという直接体験を丁寧に味わいつつ、言語体系を使うこと

「これ」「それ」という直接的体験は、実はいつも身の回りにあふれているのだ