なんとかしなくっちゃ? 愛と恐れ 熊野の釣り人は針のない糸を垂れ

k1s2007-02-23

自分の行動を振り返ったとき、「なんとかしなくっちゃ」という思いからはじめている行動も結構ある
  
現に今、この文章を書いているのも、自分自身への働きかけ、読者への働きかけ。
言葉によって、自分自身を、他者を「なんとかしよう」としている
  
 そのなんとかしなくっちゃという行動の動機を、
 「愛なのか?恐れなのか?」と問う場合もある。
  
 行動の前に「まてよ」と立ち止まり、確かめてみると、「恐れ」であること、
 そしてその恐れが「妄想」であることが多い。
  
そして、その妄想は、「自分の作風」「自分の言語体系」から生まれている。

例えば<主語+述語>という言語体系を使っていると
主語に来る名詞をどうしても実体視してしまう

「要素論」という作風からは、決して「全体論」を描けない
   
 つまり、恐れも妄想も、自分自身で作り出しているということ。
 
例えば「心の傷」あるいは「こころとからだの一致」とか、単語や文章レベルを触っても
作風や言語体系が変わらないとき、いつまでも、
自分の作り出している妄想に振り回される
 
単語や文章レベルと物語りレベルと言語体系レベルでは、階型のレベルが違う
  
具体的な援助としては、「文脈を読める」ように援助すること
あるいは、舞台や登場人物は同じでも「別の物語を語れる」ように援助すること
更には、別の言語体系を創ること
   
かくして、竜樹達は言う
  
「無無明亦無無明尽」