還郷歩禅 宇久井半島の森を歩く

自分は日本に住む日本人ではあるが、心とか精神は、東洋人ではない、と感じたのは、20歳の頃だった。
  
きっかけは、玄米菜食を通して、桜沢如一を知り、著作「易ー無双原理」や「永遠の少年」を読んだことだった。
以来、一元的二元論で物事を捉えようとしてきた。
  
それからしばらくして、今度は、増谷文雄さんの著作を教えてもらい、原始仏教を知った。
極端に言えば、それまで自分が知っていた仏教は仏教でないと思った。
  
以来、無我という言葉を、「自我という実体があるわけでない」と捉え、
原始仏教諸行無常諸法無我)・唯名論を自分の思想の拠り所としてきた。
  
がしかし、やっぱり皮膚の内側で現象している現象を、自我現象と捉えてきた。
 
ところが、グレゴリー・ベイトソンを知るに至って、今大きく自我観、無我観が変わろうとしている。
 
哲学は、存在論と認知論から成り立っている。
認知論を追及し、認知論に気を取られるあまり、「存在」をなおざりにしていた。
 
「言葉は、月を指差す指である」といいながら、月を見ず、指先に気をとられていた。
言葉の向こうに「それ」は存在するのかもしれないが、「それ」を人間は認識できるわけでない、
と簡単に結論付けていた。
 
感覚統合に囚われ、中枢という言葉に囚われていた。
 
50歳を過ぎ、体のあちこちにガタを感じるようになって
新たに学ぶ心が生まれている
あるいは、第二の放浪期に入ったのだろうか
 
宇久井半島という小さな森を通して、学びなおそうと思う