精神の生態学

ごく最近まで、記憶というものは、なんとなく、「大脳の長期記憶をしまっておくところに蓄積するものだ」と思っていました。

 同じように、なんとなく、「頭脳が司令塔で、手足が<手下>」のようなイメージがありました。

 手足となって働くという言葉がありますが、「感覚器官が手下で、頭脳は手下の岡引が集めた情報を、処理し、統合し、決定する御奉行様」という感じもありました。
 
 そこから導かれる自然観は、「荒ぶる自然を理性を持った人間が、荒ぶる肉体を精神が、コントロールしなければならない」という自然観です。

 ところが、「アフォーダンス」関連の本とか、ベイトソンの「精神の生態学」を読んでいて、イメージが変わりました。
 
 人と人、人と自然は、ネットワークを形成しており、そのネットワークこそが<精神>であり、<記憶>であるというイメージに変わっています。
 
 これを宗教的に表現すれば、「山河草木にすべて仏性が宿る」というような表現になり、
自然観も、コントロールする対象ではなく、耳を傾けるべき存在となります。
 
 このイメージが正しいかどうかではなく、このイメージで自然と向き合うとき 
強迫観念でもって、知識を詰め込まなくてもよくなります。謙虚になります。

 自分のすることといえば、窓口を広げること、感性に柔軟性を持たせることになります。