同時的、双方的インタラクション

 激しい口調で意見を述べたり、命令口調で話しかけたり、腹を立てたりなど、感情をあらわにする事に対して(自分自身に対しての、あるいは他人に対しての)許容量や許容基準というものは、
人それぞれだ。
 
 同じような場面でも、ある人は穏やかに意見を述べ、ある人は激しくまくし立てる。
 ある人は、いつまでも腹を立て続け、ある人はけろっとしている。
 
 その違いは、家風というか、育った環境も影響しているだろう。
 いまどき家風なんてと思うかもしれない。確かに、銘文化しか家風というものは今はあまりないかもしれないが、本人達が気づいていない家風というものは、ある。
 
 ある場面での感情表現は人それぞれと、普段気がついていたとしても、いざ実際腹を立てているときなどは、この場面は、当然腹を立てていいんだ、回りのものもそう感じているだろう、と思いこんでいたりする。
 
 私は人間であり、機械ではない。私が私の行為や感情を、自分の意志で持ってコントロールしていると疑いもなく思っていることが多いが、ビパッサナ瞑想をしてみると、まるで機械のように、外からの刺激に自動反応してしまっていることに気づく。
 
 自動反応自体は悪いことではないと思う。大事なのは、自分の行為の結果、どのような反応が相手から帰ってきて、結局そこに何を生み出したか、きちんと観て気づくことだと思う。
 
 出力するだけで、(フィードバック)入力を見ようとしないのを、一方的というのだろう、
 出力し、出力した後、入力を見ようとすることを、交互的というのだろう
 出力しながら、常にそれに対する入力に敏感になり、出力を変えていくのを、同時的双方的というのだろう。
 
 喧嘩はしないほうがいいと思うが、喧嘩がフィードバックになり、コミュニケーションになっている場合もある。(感情の助けがないと、自分の思いを表現できない人が居るということ。)
 外からみると、喧嘩しなくて仲が良さそうに見え、実は関わりを持つことを避けることで関係を保っている夫婦だっている。外からは分からない。