苦諦

生きるということは、先ず息をすることだが、水と食べ物が次に必要となる
 
ここに赤ちゃんがひとり生まれたばかりとする。
先ず自呼吸する、次に、おっぱいを求める。
 
おっぱいをあげるのは、必ずしも、産みの母で、母乳でなくてはならないことはないが、
生きていく為には、自分以外の生きているヒトが存在していることが必要である。
多くの場合、生きている産みの母が、母乳を与える。
 
産みの母が生きるためにも、母以外の生きているヒトが必要となる。
母乳は、妊娠したからといって直ぐに出るわけではない。
胎児がおなかの中で育っていったから、母乳が出るようになった。
 
胎児は、ある日突然、おなかに宿るわけではない。
性交渉があって宿る。
多くの場合、男と女が出会い、性交渉にいたり、子どもが宿るまでには、
それまでに、色々な関係、交渉がある。
 
ごくごく当たり前の話だ。
ひとりの赤ちゃんが生きているということは、数え切れないほどの、他人の存在があってのことだ。
 
母は、生きるため、母乳を出す為には、食べ物を得なくてはいけない。
母が生きていくためにも、他者の存在が必要であり、
社会のルールに従って、食べ物を得なくてはいけない。
 
この地球上の全ての母が、安全に子どもを生み、育てているわけではない。
生きるための食べ物を充分に得てるわけではない。
 
仏教に四苦という言葉があり。すなわち生苦、老苦、病苦、死苦をいう。
 
多くの人にとって、苦しみは、時々やってくるものであって、
その時々に、苦の消滅を思い、苦の解消を願うのであろう。
 
だがしかし、仏教では、「一切皆苦」という。
何らかの苦の症状の真っ只中にいるとき、「一切皆苦」を垣間見る。
しかし、多くの人は、症状が消えた時、「一切皆苦」もまた、忘れてしまう。
 
「個人が感じる苦」は、いつも何らかの苦だ。苦だけの、実体としての苦があるわけではない。
「個人の感じる苦」は、苦の自覚あっての苦だ。
認知を離れて、人間の生はない。
 
苦を苦と認知しないときがあり、苦でない事を苦と認知したりすることがあるのか。
「無記」答えず。
如何にせよ、苦しみは、苦しみの自覚あっての苦。
自と他を分けるとき、自は、他の苦を自覚できない。
自と他を分けないとき、その時、自は他の苦を自覚できる。(言葉表現の限界)
 
言葉は、自と他を分ける。
その言葉で、苦を表現し、苦を自覚しようとする。
その言葉が、苦の根源でもあり、私達は言葉なしでは生活できない。
 
が、しかし、沈黙と共に生きる時、あるいは空のときが、実はしばしばある。
いや、いつもある。
 
シバは創造し、シバは破壊し、シバは踊る。
シャンカラ シバ
 
第一の苦しみの矢は、誰もが受ける