原罪と慈悲に基づく行動

来院されている方が、こんな話をしてくれた。
 
先日、あるスーパーのセルフレジでの出来事。
幼児とその両親と祖母らしき人が、セルフレジで会計をしていた。
その幼児は、お菓子を食べており、食べていたお菓子を床に落とした。
幼児は、「お菓子落とした」といったそうだ。
すると、お母さんは、「じゃ、別のを食べなさい」
と言って、拾おうとしない。
祖母も、何も言わず、立ち去ったということ。
そして、落としたお菓子の始末は、スーパーの店員がした。
 
話をしてくれた人は、よっぽど注意しようと思ったけど、しなかった。
 
という次第だ。
 
この場合、注意したほうがいいのか、しなくていいのかが話題になった。
 
自分の行動を振返ってみると、
無知に基づく行動、不安や不満に基づく行動、正義に基づく行動などがある
 
何れも、危うい行動だ
 
不安や不満に基づく行動は、行動を起こしたとしても、
不安や不満が解消、解決されず
また、不安や不満に堰き立てられて、
次々、的外れな別の行動を起こしたりする
 
正義に基づく行動は、同じような正義の持ち主からは賞賛されたりするが
別の正義を持つ人とは、対立したりする
正義であったとしても、その底には、支配欲があったりする
確かに、世間常識的には正しくとも、相手に通じない時がある
 
こんなことを考えた日の夜、夢を見た
 
以前にも書いたが、タイで赤痢になって、死にかけて
大地に包まれた感じを味わったが、
夢を見た後そんな感じになった
私はこれまで、慈悲に包まれて生きてきた
 
これも以前書いたが、
私は、自分の便を垂れ流しにしている
つまり、私の便は、最終的には、浄化槽を経て、石油で焼いて、埋め立て処分されている
また、
トイレ無きマンションといわれている原発の電気で暮らしている
何万年も放射能を出し続ける廃棄物を、六ヶ所村に押し付けている
 
それだけでなく、常に環境を壊しながら生活を営んでいる
自分が一番可愛いと思い暮らしている
自分自身を見つめても、慈悲の心などなく、むしろあるのは原罪、エゴ、私利私欲
 
そんな私であっても、世界全体は、私を慈悲でもって、生かしてくれている
 
自分の中には、慈悲の心などなく、あるのはエゴである
そんな私でも、世界は慈悲の心で生かしてくれている、
そういう自覚をもって行動したいものだ、
人と関りたいものだ、と思っている