世界は生きており、転生する

ここ最近、いつもよりはやく自宅を出る。
自宅のある山道から国道に出る信号のところで、朝陽が見える。
雲が、黄金色や暁色に染まっている。
人は、この風景を写真に撮ったり、絵に描いたり、
そして、形に残すことなく、消えゆくままに味わうことができる。
 
仕事場の駐車場に着くと、近くのおばさんが、塩をした秋刀魚を抱えてやってきた
「おはようございます」と声をかけると
「寒いねえ」
「寒いですね、でも秋刀魚を干すにはいい日和ですね」
「そうやね」と会話
 
接骨院で朝の準備が一息ついて、メルロ・ポンティをインターネットで検索
 
デカルトが、人間のからだを精神と肉体にわけ、要素還元主義の時代が始まったのは
それなりに時代の要請というものがあっただろう
 
1920年代、30年代メルロ・ポンティやカミュサルトル 
その他名を知らない人々の論争の積み重ねを経て
私が今、2005年に思っていること、考えていることにつながっていると思う
 
いのちは不思議だ
ある種の植物は、葉っぱを挿しておくだけで、そこから根が出てくる
古事記などでは、母神が死に、その体の部分からまた新しい神が生まれてきたりする
それは、サトイモを食する文化ではよく見られる神話だと聞いた事がある
 
要素還元主義では、例えば、脳の組織のある部分が壊れてしまえば
どうしようもない
しかし、実際の生きている人間はどうだろう
例え、部分が駄目になっても、駄目なままで、新しい機能が生まれる
 
「私」という世界の「部分」は、いつか壊れてしまうだろう
しかし、世界は生きており、新しく生まれ変わることだろう
 
で、朝陽に見とれ、近所のおばさんと挨拶をすることが、消えゆく「永遠」