見えない手によって支えられている

今日の朝は、時々行っている喫茶店で、モーニングセットを食べた。
朝日の差し込む暖かい座席で、ひとり食べる。
 
そのとき、私は場の中にいること、場によって包まれて生きていることを感じた。
ふるさとという場。日本という場。
 
 誰かと言葉を交わしたのではない。
 ただ、他の日本人の会話が聞こえてくるだけ。
 
普段は、場によって包まれ、生かされていることは、
余りにも自明すぎて感じられない
 
これまで海外に行くと、いつも思った
自分では気がついていないが、
ふるさとという場、日本という場に包まれ生かされ生きていると

もちろん、上海へ行けば上海の場に包まれて生かされているのだが
それは、旅人としてだ
 
 いつも多くの手によって、支えられているのに、つい忘れがち
 神々の手、妖怪の手、そして人々の手
 でも、直接触れる人の手は、日本では以前より少なくなっているかもしれない