Basale Stimulation 感覚統合 シックスセンス パラダイムシフト

バザーレスティミュラチオーンといっても、ほとんどの人は、ピンと来ないのではないだろうか。
試しに、インターネットで検索してみても、アンドレアス・フレーリッヒのドイツ語原著と、澤口裕二さんの「さあさんのかかってキネステティク」にしか、あたらなかった。

私自身、この言葉は、同書によって知った。それで、そのまま引用してみる。
<<1975年、アンドレアス・フレーリッヒという人がドイツにいました。フレーリッヒは、発達遅延や身体障害の子どもの特殊教育担当教師でした。ある時、「あれれ、子どもたちは私たちが気づかないかすかな感覚が感じ取れるようだ」と気がついたのです。
 それから、このかすかな感覚をコミュニケーションの手段として考えてみてはどうだろうと考えました。そうして得た結論は、「障害を持つ子どもたちはコミュニケーションが絶たれている。それは能力が無いからではない。接触、振動、傾き、におい、音、その他の原始的で基本的(Basale)な感覚への刺激(Stimulation)はコミュニケーションの手段として使える。しかし、その感覚をまとめ上げてひとつの情報にするという段階(感覚統合)で混乱している。したがって、このような子どもたちとそのような感覚でコミュニケーションをとるためには、まとめ上げやすい、はっきりとわかりやすい刺激をあたえなければならない。」>>(168ページ)
  
「あれれ、子どもたちは、、、」とあるように、障害のある子どもとはいっていません。ある子どもたちは(あるいは、大人であっても、)多くの大人が忘れてしまっている感覚能力があるように思います。
 水木しげるさんは、自伝の中で、<三歳まで単語は言えても、つながらなかった。>と書いています。<両親や周りの人たちは、アホな子どもだと思っていたふしがある。>それで、<小学校への入学も一年遅れている><何しろ現実が面白すぎた。驚きの連続で、しゃべる暇がなかったのだ。><見る力と驚くが普通の子どもの三倍ぐらいあったのだろうと思う>(水木サンの幸福論32ページ、33ページ)
 
ある感覚があっても、<感覚統合>されていないと、認識もできないし、コミュニケーションもできないでしょう。この感覚統合、なにを以って完成というのでしょう。本当は、一生発達し続けるものではないか、と私は思っています。
 
 単なる思い込みだといえば、思い込みかもしれませんが、私には私だけのある感覚があります。
毎日、筋肉にコリがある人に触れているわけですが、その凝りに触れた時、こちらにも痛みに似た感覚が生まれたり、ほぐれていく時、ある種のしびれ感を感じます。
 これは、自分では、客観的な感覚だとは思っていません。自分が自分でそのような意味づけをしているのだと思っています。しかし、主観的であれ、私にとっては、実際役に立っています。
 またいつも感じられるかというと、ゆっくり、丁寧に触れていないと、そうはなりません。
 
 私は、英語の聞き取りや発音が苦手です。
 というのは、中学校の時、日本語のカタカナ表記で発音を覚えてしまったからです。
 「ジスイズアペン」と、教科書に書き込みながら、英語を学びました。
 
 インドネシアを一人旅していた時、約2週間で、現地の言葉を覚え、日常会話には困らなくなりました。日本語がほとんど使えなかったからです。
 
 新しい言語を学ぶ時、それまで学んだ言語が邪魔をすることは、よくあることだと思います。
 
 言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションを一緒くたにして、話してしまっていますが、言語コミュニケーションを脇においておいて、非言語的な刺激を、感覚統合させ、新しい言語コミュニケーションに使えるようにすることができるのではないかと思っています。
 
 私は幼い頃から、たった一人で、よく森の中を散策し、道なき道も、木々に触れながら、どんどん歩きました。今でも時々します。
 そんな時、一人ぼっちという感覚が無いのです。何らかのメッセージを感じるのです。歩いていると、うれしくなってきます。
 
 西洋の魔女さんたちとか、中国で漢方の薬効を定めた人たちというのは、ただ単に知識の積み重ねとか、伝統だけでなく、ある種の感覚があったのではないかと思ったりします。
 
 いずれにしても、直に、丁寧に触れるということが、おおもとのように思います。