パラダイムシフト キネステティクのいう健康

この世界はどのようなところなのか?
なぜ今世界はこのような姿をしているのか?
私を含めて、世界はどこからやってきて、どこへ行こうとしているのか?
どうしたら、世界を理想的な世界にすることができるか?
 
と、私達人間は考えてきました。答え(世界観)を求めてきました。
 
 ここ最近の時代においては、「ものは確固として存在する、確固とした法則や真理が存在する」ということを前提としている人々が多いように思います。
 
 哲学でいえば、「この世界の究極の存在は何なのか?」という存在論をもっぱら論じてきました。
  
 一般常識的、世俗的には、「物の実在は疑いようがなく、ものとものとが集まって、世界ができている、ものとものとの間には、確固とした普遍的な物理法則が働いている」という、実在論、要素論、が主流であるように、私には見えます。
 
 簡単に言ってしまえば、今から約350年前、デカルトが、「人間は精神と肉体からできている」といったことを、いまだに疑いも無く、そのまま常識としている人々が、世俗的には多いように思います。
 丁寧な、洗練された思考を重ねた人々の中では、ものごとの見方に、パラダイムシフトが起り、哲学においては、存在論と共に認識論が論じられ、ものごとの見方(世界観)は、社会的構築主義複雑系、システム理論が前提となっているように思います。
  
 がしかし、これまでのデカルト的な世界観を常識としている人々が、それらの世界観を理解するには、コペルニクス的な転回、仏教で言うところの「縁」の積み重ねが必要なようです。
  
 これまで、存在論と共に、認識論を論じるということが、皆無だったわけではありません。
哲学においては、実在論唯名論の普遍論争と言うものがあります。
 つまり、「鉛筆」という言葉に対応して「エンピツ」という本質が実在するというものの見方をする人々と、「鉛筆」という言葉(名称)は、世界のある部分・ある出来事を、人間が恣意的に切り取って、結び付けた単なる記号に過ぎないという見方です。
 
 ものごとを深く考えずに、「肉体と精神」という言葉を使っていると、あたかも、肉体と精神が別々に存在しているかのように、思ってしまいますが、唯名論的な見方をすれば、肉体と精神も言葉であって、実際にあるのは、肉体と精神にわけることにできない「全体(システム)としてのからだ」ということになります。
  
 日本語に、「姿形」という言葉があります。
「形」と「姿」は似ている言葉ですが、同じではありません。
「形」とは、静止し、現に今目に見えているものです。(名詞的、実在論的)
「姿」とは、一連の動きのことをいいます。人間の動きでいえば「所作」と言い換えてもいいでしょう。(形容詞・動詞的、唯名論的)
  
 美人であっても(形が美しくても)、所作がだらしない人がいますし、美人でなくても、所作が美しい人がいます。
  
 ですので、「形としての健康」と「姿・所作としての健康」があるように思います。
 形としての健康だと、どこかに病気や障害があると健康といえません。
 姿、所作としての健康は、例え病気や障害があったとしても、それを抱えたまま、ほかの健康なところ、残存している能力を活かしているときは、健康であるといえます。
  
 キネステティクでいう健康とは、後者です。