名詞的人生と熱い、寒い、柔らかい、硬い、明るい、暗いなど形容詞の

羽鳥操さんが、自身のプログの中で、「動詞的人生」ということを書かれてあったので、コメントを書いた。以下その文章。


名詞的人生と熱い、寒い、柔らかい、硬い、明るい、暗いなど形容詞の中に生きること

 あまり深くものごとを考えず、あるいは感じないで、この世界を見てみると、いろいろな「もの・名詞」が集まって、この世界ができているように見えます。<要素論>
  
 例えば、「机の上に、鉛筆、ノート、消しゴム、コンピューターが載っている」のが見える、と。

 しかし、丁寧にものごとに触れ、かつ自分の認識が生まれる過程をつぶさに感じてみると、私に見えていること、感じることは、硬い、柔らかい、丸い、角張っている、黄色い、黒い、熱い、冷たいなどの形容詞です。
  
 それらの情報を元に、私が私の中で、鉛筆がある、と人間として勝手に認識しているだけです。
 夜中に、ゴキブリやねずみがやってきて、私が鉛筆と観ているものを、障害物とか、あるいは食べ物と認識しているのかもしれません。
   
 私はそのように世界を捉えています。
 「いや、鉛筆という名詞に対応したエンピツという本質が存在する」と、捉える人々<実在論者>もいます。
 哲学の世界では、唯名論実在論との論争が長く続いてきました。
  
 哲学的論争はさておき、私は、「まっすぐに立つ」という言うときの「まっすぐ」を、自分のからだでさぐります。
  
 気をつけの姿勢を「まっすぐ」と疑わない人もいるでしょう。
 太極拳の立禅や武道の自然体を「まっすぐ」という人もいるでしょう。
 私の場合、まっすぐに立ったつもりでも、丁寧に観じてみると、微動している、揺れていることを感じます。

 「決定的な、不動的なまっすぐがあるわけでない、かといって無いわけでもない」と、地球にブラ上がる度に感じます。
   
 更に、「生きる意味(名詞ですね)について感じることがあります。

「生きる意味」といった<もの・名詞>が、世界の側に転がっているわけではない、とおもっていますので、「物を探すように生きる意味を探しても、見つからない」と思っています。
   
 だから、年齢を重ねる内に、「意味を探したけれど、見つからない」と虚無感が生まれてきたりするのは、ある面、自然かなと思っています。
 生きる意味がものとしてあるわけでない、かといって、生きている意味を感じることがないわけでもない、とおもうのです。
   
 これを心理学に当てはめると、
「嫌だなあ、傷つくなあ」と感じることはあっても
「心の傷・トラウマ」(もの・名詞)が、突飛な行動をさせることなどは、私には、ない
    
「まっすぐに立つ」ということを探りながら、私はそのように観じています