厳罰主義とリストラティブジャスティス (国家統制と住民自治)

昔、「アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪をひく」という言葉を聞いたことがあります。
 「日本は、経済的にも、文化的にもアメリカを追従している」ということを表現しているのでしょう。
    
 アメリカは、犯罪に対して厳罰主義を採っています。一方、リストラティブジャスティスを色々試行錯誤しているのも、アメリカのようです。
 「日本はアメリカを追従している」とするなら、日本でも厳罰主義が高まるのでしょうね。
  
 実を言うと、私は最近まで、リストラティブジャスティスという言葉を知りませんでした。
 平成12年(2000年)国会の審議で、少年法警察法の改正(改悪?)があり、その審議の過程でも、リストラティブジャスティスという言葉が出てきますが、当時、国会審議など見てなくて、見過ごしていました。
  
 ところが最近、知人が、カウンセラーの勧めで、6年前の刑事事件の娘さんへの加害者と対面し、その場で(知人とカウンセラーが)相手の頬を平手で叩いてしまい、傷害罪で訴えられ、逮捕されるという事件が今年の8月にあって、(後に不起訴になる)そのことをきっかけに、加害者と被害者の対面プログラムを調べていて、リストラティブジャスティスという言葉を知りました。
    
 リストラティブジャスティスは、日本語に訳せば、回復的司法ということになりますが、日本語に訳してしまうと、若干ニュアンスが違うので、そのままリストラティブジャスティスと、日本でも使われているようです。
   
 簡単に言えば、犯罪による被害や影響を、被害者、加害者、地域の住民が、主体的に関わって回復しようとする解決法、ということになります。
 (私は、法律家でも、カウンセラーでもなく、インターネットで得た知識をそのまま述べています。誤っているところが有れば、ご指摘下さい)
   
 歴史的、経済的背景としては、アメリカでは、犯罪に対して厳罰主義をとったものの、一向に犯罪が減ることがなく、経済的にも負担が大きい(4000人収容できる刑務所に、受刑者が4700人収容され、急遽倉庫を監獄としていたり、教員の数より、看守の数が多い州があったりする)ので、実際に(経済的にも)効果のある回復法を求める動きが出てきたそうです。
   
 リストラティブジャスティスについて調べていて思ったことがあります。
  
 犯罪による被害や影響の回復だけでなく、例えば、防犯、教育、福祉、環境保護、芸術の分野においても、私達市民が、国家や行政、マスメディアに任せすぎてはいないかということです。
  
 もし何かの犯罪があったとき、国家・警察が犯人を捕まえて、国家が刑罰を加える、という解決方法に対して、当たり前と思う人が多いのではないでしょうか。(当事者になって、やっと見えてくる問題というものがあります。例えば交通事故で、症状が残っていたとしても、治療補償が途中で打ち切られたりしますし、全然謝りに来ない加害者に、被害者が謝って欲しいと思って、そのことを要求すれば、要求した被害者が、恐喝の罪に問われることになったりします。)
   
 同じように、道路に穴が開いていたら、行政に連絡して、行政が修復すべき、と思うことについても、疑問を感じる人は少ないように思います。
 (私の住んでいる地域は田舎ですので、住民自身が治せる程度の道路の穴や草刈は、住民の手で行うやり方が残っています。)
  
 また、知人の事件で思ったのは、リストラティブジャスティス、あるいは住民による主体的参加は、それを実現するには、用意周到な事前準備の努力と技量が必要になるということです。
   
 事件の詳細は、現場に居た訳でないので、言えませんが、アドラー心理学で言うところの、「目標の一致」が不十分だった様に思いました。
  
 私の印象としては、今の世相を観ると、ますます厳罰主義、国家や行政へ依存するほうへ進む人々と、主体的に解決や回復に関わろうとする人々の二つの流れに、分化するように思います。
   
 人間は社会的動物、とはよく言われますが、私達は何らかの集団の中の一員、制度を構成する一員として暮らしています。家族、親類、学校、地域社会、会社組織、国家など。
 
 先ほど、依存とか主体的という言葉を使ったのですが、社会の一員として、すべてを依存しっぱなしで暮らすこともないだろうし、全く主体的に暮らすということも無いように思います。
 自覚のある無しに関わらず、制度やシステムに組み込まれています。
  
 また、何を以って、依存的といい、何を以って主体的というか、改めて考えて見ますと、難しいです。
  
 がらっと表現を変えて言えば、社会の一員として隣人と向き合う時、相手をもの扱いしない、レッテルを貼って、そのレッテルでしか相手を見ないという関わり方ではなく、全体とのつながりの中で縁あって、存在している人、縁あって、今目の前にある、かけがえの無い人として関わる、そのような関わり方をしたいものだ、と思いました。