人間の行動が、本能と学習に基づいていることは、誰しも認めることだろう。
お腹が空くと、何かを食べたくなって食べ物を求めるのは本能、それをどうやって手に入れるか、どうやって調理するかは、学習、といった風に。
しかし、感情表現については、多くの人が、それを本能の範疇に入れる。
例えば、人間が蛇を嫌うのは、本能である、
まれに、蛇に興味を示し、飼ったりする人がいるが、それは変人である、と。
心理学者の間でも、恐怖の感情が本能か学習が論争されてきたそうだが、まるっきり実験室で生まれ育ち、蛇を一度も見たことのない猿が、蛇を恐れないことから、学習だといわれている。
私は、感情表現は、例えてみれば、屋根瓦だと思っている。
本能という土台の上に、学習という柱が立ち、屋根の上に感情表現が載っている。
屋根の上には、瓦を載せてもいいし、トタン屋根でも良いし、茅葺でも、スレートでも、コンクリートでも良い。
感情表現が本能である、と思い込んでいるように、
私達は、それぞれ、この場面ではこの感情表現が当然と思い込んでいるように思う。
それだけでなく、このような感情表現をすれば、相手や周りの人は、その表現に対して、ある決まった行動を起こすだろう、と思い込んでいるように思う。
それで、思い込んで、期待している行動を相手が起こさなかったら、相手を変人扱いし、責めたりする。
あるときまでは、自分と違った感性を持っていることが魅力であったのが、一緒に暮らし始めたりすると、その違いが鼻についたりする。
それで、熱く愛し合っていた恋人たちが、憎しみあい破局を迎えたりする。
そういったことを避けるには、感情が沸き起こってきた時、あ、これは学習の結果なのだ、必ずしもこの感情でなくても良いんだ、と気付くことである。
そういった気付きは、直ぐに出来る訳ではなく、日々、自分を見つめる瞑想を続けることだ。