映画だけに限らないが
映画評論というのは、映画作品について語っていると同時に
作品を評価している自分を語っている
だから、同じ映画について、人によって評価がまちまちなのは当たり前だと思う
絵画についても同じ、音楽についても同じ
「ライフ・イズ・ビューティフル」1997年イタリア ロベルト・ベニーニ主演・監督
のビデオを観た
レンタルビデオショップでおおよそのストーリーを読み、借りた
「男性イタリア人というのは、身近に女性がいると、口説くのが努めと思っている節がある」と、イタリアを旅した女性が、以前言っていたの聞いた事がある。
そんなことを思い出しながら、前半を見ていた。
主人公は、実によく喋るし、少しドタバタ、傍若無人
もし、イタリア男性がほとんどこんな感じだったら、私の場合、身近に暮らすのはしんどいかなと思ったりした。
しかし、夏を過ぎると、影の長さが少しずつ伸びていくように、そして秋が訪れるように、観ているうちにどんどん惹き込まれていった。
評価は色々あるだろう
映画であれ、絵画であれ、また俳句であれ
作品は、語ろうとすることの多くの部分を切り捨てている
切り捨てるといっても、無駄だから切り捨てるのではなく
象徴的に表現し、あえて多くは語らない切り捨て方もある
語ってしまえば、かえって嘘っぽくなってしまう場合もある
語ってない部分を感じ取る能力を、鑑賞する人も必要となる
(無理に評価を語らせようとする絵画教育があったりするが、
そのことについて述べるのは、今は話題がそれるので止める)
この作品もまた、あえて語ってないところがある
ライフ・イズ・ビューティフル
アウシュビッツを体験し
「それでも、人生にイエスと言う」という本を残した人(人々)のことを思い出した