行いを変えるということ
ある人のある行いを変えて欲しいと思っているとき
ともかくある具体的な行動を変えて欲しい時と、先ず心や考え方を変えて、そして慢性的な行動を変えて欲しいと思うときがある。
多くの場合は、ともかく行動を変えてもらうだけでは不十分で、心も変わって欲しいと願ったりする。(また、繰り返すかもしれない)
あるいは、行動を変えたとしても、「心が変わっていないから」といって、不満に思ったりする。(厭厭するのなら嫌だ)
でも、行動が変わっているのだから、それはそれでよしとしたらどうだろう。
切羽詰っている時や、実際に被害を受けるときには、心はともかく、お願いや威嚇でもって、行動を変えてもらおうとするだろう。心を入れ替えるなんて、待ってられないから。
心を入れ替えた上で、行動も変えて欲しいと願い、なんやかんや言ったりが、お願いや正論や威嚇で、ほんとに、相手が心を入れ替えたりするだろうか?
もし変わったとすれば、それはこちらのお願いや正論や威嚇が通じたのではなく、たまたま相手も変わりたいと思っていたときだと思う。
人が人の心を入れ替えさせるなんて、とてもとてもむずかしい。
これを自分が自分の行動を変えたいと思うときに当てはめる。
心を入れ替えなくちゃ、しかし止められないと言い訳している時は、
心をともかく置いておいて、威嚇や騙しや、気分転換で、ともかく行動を変える
昔は、威嚇や騙しは嫌いで、正論や誠意、真心といった言葉が好きだったけど、
実際に人が行動を変える場面を観察していて、威嚇や騙しも必要だと思うようになった。
決して、暴力を肯定しているわけではなく、実際まあるく収まる道を思えばこその思い。
逃げられなくて、身に降る火の粉は、振り払えばいい
消すことができなくて、逃げられる火の粉なら、逃げるがいい。