俳句と絵画

k1s2005-04-27

青蛙ぱっちり金の瞼かな 川端茅舎

一時、俳句を詠んでいたことがある
俳句は、17文字の言葉で、2枚の絵を描くことだと、今も思っている。
俳句を詠むには、(俳句だけに限らないが)日々日常、朝から晩まで、起る出来事に目覚めており、いつでも詠める体勢にしておくことが必要、とその頃は思っていた。
 しかし、その緊張感の持続と日常の仕事が両立できず、いまは、俳句を詠む事からは遠ざかっている。
 絵を描く場合は、絵筆を持ち、しばらく見つめ続けていると、左脳から右脳へのスイッチが切り替わっていく。
 俳句の場合、絵筆でなく、言葉で絵を描く。言葉は左脳の領域なので、左脳と右脳が交流電流のように波をうっているように思う。
 絵筆で絵を描く時は、直流電流のように、意識が流れているように感じる。
 だから、俳句と絵画の目覚め、緊張感は違うと感じている。

 ともかく、先程の川端茅舎の青蛙の俳句は、私にとって戒めの俳句だ。
 幼い頃から、青蛙は見てきたし、手のひらに乗せて遊んだこともある。
しかし、瞼が金色をしていることは、川端茅舎の俳句に出会うまで気付かなかった。

因みに、川端茅舎は最初は、絵描きになろうとして、その修業もしていたようだ。しかし、病弱だったので、絵を描く体力に自信がもてなく、俳句に移ったと何かで読んだ。

絵を描きたいあなたへ (講談社ニューハードカバー) 絵を描きたいあなたへ 永沢まこと
永沢まことさんの絵を観ていると、俳句の別の側面、「軽み」を感じる。
17文字の言葉で絵を描くには、多くのことを、捨てていく。
捨てて、軽くなる
絵を描きたいあなたへ、を読んでみると、永沢さんでも自分の線に至るまで、約20年間模索したみたいだ。
期間の長さや時期についてはどうこう言えないが、「軽み」に至るには「重い」時期が必要であるとも思う。