私は9ケ月児未満? 共同注意行動

現在、通信制大学の三回生で、今は「教育心理学」のテキストを読んでいます。

今現在、「認知の発達」という項目を読んでいるのですが、
自分としてはショッキングなことがありました。

ショッキングなことというのは、
「指さし」という言葉や行動は知っていたものの
それが「共同注意」とか「共同注意行動」ということの一部であることを全然認識していなかったということです。

私も三人の子供の父親ですから、指さし行動は知っています。
長女が一番最初に覚えた言葉は「hana」でした。
「mama」や「mannma」よりも先に「hana」という言葉を発しました。
 
長女が花をみて、指さししながら「hana,hana」といいました。
「そうだね、花だね、パンジーだよ。可愛いね。」といった返事をしたと思います。
 
指さしをした後、子供はどうしているか?
指さししたものを父や母が見ているか、見てどんな反応をしているか、
父や母の視線や表情を観ていたことを、気づかずにいました。
それがショックです。
 
その後も、成長と共に
子どもが指さししたものを、私も見、そして何らかのコメントを言ったと思います。
コメントを返しはしたものの、
私の視線や表情を観ようとした子供の顔を、更に私が観た、見つめあったというような記憶が、ないのです。
私自身も、指さししながら成長してきました。
私の指さしは、ほとんどが指さしするだけで、
相手の視線や表情などで、共同注意となりえたかどうか確認してこなかったように思います。

それがショックです。


この共同注意行動は、生後9ヶ月ぐらいからみられるそうです。
テキストには、
「共同注意行動は、話し言葉の獲得の基礎として、そして、子供が他者の理解を作り出していく過程で重要なものとされている。他者と一緒に一つのものに注意を向け、発話をすることは、ものの名前を知り、言語をもちいたコミュニケーションを行ううえで基礎になる。」とあります。

それを思うと親であった私が、9ヶ月から成長が止まっていたのではないか、というショックでもあります。
 
自分は色んな知識を持っています。いろんな人と関わってきました。
コメントもいっぱい述べてきました。相手のコメントにも応えてきました。
でも、コメントに答えると同時に、コメントを発している相手のことを観ていたか、となると自信がありません。
 
この世界の中で生きてきて
世界を「自己」と「非自己」に分けて捉えることと
「非自己」の中に、「他者」を見出すことは違うのだ、と考えてきたものの
実際の生き方は「自己」と「非自己」の区別で生きてきたのではないか。
「自己―モノ」「自己―相手のコメント」「自己―相手の身体」という
二項関係だったのではないか

「他者」という言葉は知っていたものの、「他者」とは出会ってこなかったのではないかというショックです。

幼児が「hanahana」と言って何かを指さしたとします。
その時、相手の人がそれにすぐには関心を向けなかったとします。
その時、幼児は次に何をするのでしょう。
幼児としての私はどうしてきたでしょう?
 
一概には言えませんが、
相手が見るまで何度も指さす、腹を立てる、諦める、さしっぱなし、など考えられます。
 
指さすものが、花とか小鳥とか虹とか具体的なものごとであるならば
一緒に見た時点で、共同注意行動は完結しているのかもしれません
もうそれで満足。
でも大人になるにつれ、私の指さすものの内容がより抽象的なことになりました。
 
実は、貪欲なのでしょう。
キャッチボールの一球一球を楽しむより、
更に、キャッチポールを超えて、
何か完成されたものや完全なる一致を求めていたように思います。
そして、そこで不満足を感じるか、
諦めつつ一方的に指さし続けるというパターンが多かったように思います。