一切皆苦

一切皆苦
 
一切皆苦」といえば、
「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」という反論が返ってきたりします
 
一切皆苦でいうところの「苦」と、楽あれば苦ありでいうところの「苦」は、
同じ「苦」という漢字表現でありながら、実は同じ「苦」ではありません。
 
このことを理解するには、論理階型の理解が必要と思います
 
果物の中に、リンゴがあります。リンゴの中に、紅玉やフジ、王林があります。
果物、リンゴ、王林、が階層構造になっていることは、理解できると思います。
 
ところが、林檎や蜜柑や梨のことを「果物」といわずに、
「リンゴ」と表現してしまうような使い方をしているので
理解が難しくなっています。
 
フロムが著作の中で、
四聖諦の中で、一番理解が難しいのは「苦諦」であると述べているそうです
 
「苦諦」で言う苦も「一切皆苦」の「苦」です
 
盲目的(無自覚的)な生への意志に基づく一切の行為は、構造的に「苦」を増幅させます
 
確かに、目的が達成されれば、欲が満たされれば、そのときは「快」をかんじるでしょうが
諸行無常、すべては移り変わります
欲が満たされ続けることなどありえません

宝くじで1億円当たればうれしいです
しかし、その人自身が、そのお金を増やす能力がないのなら
それ以降の人生は、所有する金額がマイナスの人生です
 
人は老いて行き、病い、やがてこの世を去ります
 
基本的に、人生はむなしい
その無意味さ、虚無から目をそらすには
快もそして苦(楽あれば苦ありの苦)も、格好の材料となります
 
構造的な深い苦(一切皆苦)から、目をそらす為に、
わざわざ苦(楽あれば苦あり)を選ぶことだって
人間は時に行います
 
先日も書きましたが
人生の師の中で
ある師は、不快(不幸)なことを避け、快(幸)を得る方法について述べます
ある師は、不快なことを受け入れることを勧めます
それとて、「快を得る為」にです
ある師は、快も不快も「手放す」道を教えます
 
快も不快も手放す道とは、無味乾燥な道ではなく
自分にできることは何かを、常に考える道です
いうは易し、行なうは難し