ヴィパッサナ? 「無」と「無い」は同じとは言え無い

ヴィパッサナあるいはヴィパッサナーという言葉は
瞑想に関わっている人の間では、ごく普通に使われる言葉になってきていると思う
 
それでいて、それに関する本やらHPを読んでいると
まるで店頭に飾られた新車のようなイメージを受ける
 
実際に乗った感じがあまり伝わってこない
  
それは、身受心法の「法」をどうとらえるか
無我の「無」をどうとらえるか、「無我」そのものをどう捉えるか
それが日常生活とどう結びついているかがあまり伝わってこないからだと思う
  
「日本人で、タントラを実践しているお坊さん」という人に、私はまだ出会っていない
  
「無」と「無い」は同じとは言え無い
 
法を「心が対象とする一切」という解釈をしたりするが
むしろ、法を事象と事象の関係、事象の奥にある構造と捉えたほうが
現代人にはわかりやすいように思う
 
そういった意味で、構造主義やシステム論を説くお坊さんにもであったことが無い
 
まあ、私の人間関係が狭いということでもあろうけど