たまゆら その後のその後 言語と存在・認識 シンハラ語

日本人にもバイリンガルな人が増えているとおもう
会社内で、日本語禁止の会社もあるという
 
私に関していえば、長年英語を習ったのに、英語は話せない
単語とかはわかるが、長文になるとわからない
 
中国語は、筆談を交えると、旅行会話程度ができる
が、中国新聞は読めない
 
20歳代初めの頃、バリ島に旅をして、1週間で会話ができるようになり
ジャワ島の人に間違われたことがあるが
まるっきり忘れてしまった
 
実用というか、会話のために、外国語を習って、使えるに越したことはないと思う
それとは別に、言語と認知の関係を知るために、外国語を習うのはいいことだと思う
 
できたら、日本語には、てにをはの助詞があるので、助詞のない言語と、
主語がなくとも、語句の語尾変化で、主語がわかるような言語がいいと思う
 
 
 「わたし は 空腹だ」と言ったり書いたりするところを
 
 「わたし に 空腹だ」と言ったり書いたりすると、それは間違いだと訂正される
 
日本語としては、まちがい かもしれないが
例えば、シンハラ語パーリ語を直訳するとき、それが正解であることがあるらしい
 
これが認知論や存在論とどう関係してくるか
 
「主語」+「述語」の言語を使っていると、
いつの間にか、永遠不滅の実体としての「主語・主体」があるように思い込んでしまいがちになる。
 
わたしは男だ。 わたしは社長だ。 わたしは山田太郎だ。という言葉を使っているうちに、
「わたし」という永遠不滅の「主体」があるように思えてきたりする。
 
瞑想を行い、認知の過程を観察すれば、それは勘違いと気づいたりするのだが
今は瞑想の話ではないのでさておき
 
「りんごは赤い。」 「りんごは甘酸っぱい。」 「りんごはジューシーだ。」
という言葉を使っているうちに、
「りんご」という「主体」に、「赤い」「甘酸っぱい」「ジューシー」という属性がくっついているように思ってしまう。
 
ところが、パーリー語なんかでは
「それ に 赤性がある」「それ に 甘酸っぱい性がある」「それ に ジューシー性がある」
さらには「それ に りんご性がある」という表現になるらしい。

「りんご」は主体ではなく、「それ」の属性のひとつになる。
 
そして、「それ」に「どのような属性を見出すか」は、人それぞれということになる。
 
ここに至って、「人は世界のありのままを見ているのではなく、その人の観たいように見ている」
という文章に結びつく。
 
そこで「たまゆら」のはなし
ある人は「それ」に「ひかり性」「きもちよさ性」「かわいい性」「ふしぎ性」を認め
別のある人は、「たまゆら性」を認め、ある人は、「認めなくても別にいい」ことになる
 
パーリー語を知らず、日本語だけで、「たまゆら」を主語にして会話してしまうと
不毛な議論に陥ったりする
 
教育基本法はどうなっていくのだろう
英語だけでなくパーリー語も学ぶなんてことには ならないでしょうねえ
 
日本語や英語、あるいは中国語だけでなく
パーリー語の基礎知識があれば、仏教への新しい理解が生まれると思う