<癒し> 何を癒すというのか ビパッサナ瞑想の話

今日は偏見に満ちた文章を書く
今日だけでなく、私の書く文章は、いつも私の偏見を書いているのだから
今日は、特別偏見に満ちた文章を書く
 
<生命あるものと生命無きものの違い>を考えた時、色々上げられるだろうが
ひとつに、「目標・目的を持って行動すること」を自分は上げる
(一纏まりの文章で表現するなら
生存と増殖と充足のために、主観的判断をし、感情を奮い立たせ、環境や自分自身に働きかけて、その在り様を変化させることが生命あるものの特徴だと思っている)
 
では、私達人間の究極の目標・目的とは何だろう?
 
私は、「孤独感を癒すこと」だから、つまりは「私利私欲の追求」になっていると思っている
(全ての人間の全ての行動だそうだ、と言い切っているのではなく、私にはそう写るのです。市民運動もボランティア活動も、その根源的な目標を観察したとき、私には、孤独感を癒しているように見えます。だから、私の偏見です)
  
「人は一人で生まれ、一人で死に行く、しかし一人では生きられない」ともいえると思います。
この一人で生きられないことは、自分と世界の全体性・生かされている有り難さを感じる契機でありながら、同時に、「私の不完全性」・孤独感を感じる契機でもあると私は思っています。
 そして、「一人で死にゆくこと」は、孤独感を感じる契機です。
 
この孤独感は、余りにも日常過ぎて、まるで衣服を一旦着てしまうと、衣服を意識しないように、孤独感を纏っていることに、無意識になってしまっているように思います。 
このように書いていてすら、自分の行動の目標が、孤独感を癒すことである、私利私欲である、との自覚は難しいように思います。
 
時に、ああ癒された、と思うことがあります。
しかし、またこの孤独感はやってきます
 
「私は<私の孤独感>を癒そうとしているということの自覚」
「<私の孤独>は癒されることがないという自覚」は、そのまま癒しにはなりませんが
一時的な安らぎを得る機会は増え、
過度な努力を少なくし
人様に迷惑を掛ける行動も少なくなるように思っています



昼間には星が見えない
青空の中に星が出ていないわけではない
太陽の光が強すぎて、星の灯りが見えないだけだ
 
全ては流れ、変化していく
だから、虚空
だから、今このときを永遠と感じる
 
永遠なる星の光は、虚空の闇の中でこそ輝く