語り合う、響きあう「ライブ」を楽しもう

本来、声は、一度切りのものだ
だから、同じ歌を歌っても、ライブだと同じ歌ではない
一回一回違う
瞑想にしても、太極拳演舞にしてもそうだ
 
キネステティクの本を翻訳している澤口さんによると
キネステティクもそうだという
 
キネステティクでは、「同じ患者さんを相手にしても、同じ介助は二度とできない。
朝、うまくできたことを午後にやろうとしても、同じ介助はできない。常に、新しい介助である」と言います。>
  
 昨日、新宮市豊田勇造さんのコンサートがあって出かけてきた。
 昨年、二年前に続き、今年も友人の井上高志ファミリーが企画して行われた
 
 そもそも、二年前、豊田勇造さんのコンサートに出かけ、
それで、自分もまた再び、部屋の隅で埃をかぶっていたギターを弾き始めた
 
 ここ2年の内に、十数回、友達を誘ってコンサートを企画して歌ってきた
 
 ライブだと常に響きあえるかというと、そうでもない
 技術的に上手であっても、
「ほら、こんなに上手だろ、ねえ私を注目して」という思いばかりが強くて
響きあえない歌い手もいる
 でも、そんなこともわかってしまうのがライブだ
  
 本や、CDやDVDやビデオをまるっきり否定することはないけれど
 同時に、「生・ライブ」を忘れてはいけない
 
 本来、生きる、というのは「生・なま」で、一度きりのものだ
 
 それを、わざわざ、世間とか学校教育は、人生を
 CD化、マニュアル化、規格化しているように感じる
 
そして、このCD化、マニュアル化、規格化からはみ出ようとするものを
パッシングする力は、案外根強い
また、自分で自分を抑圧もする
 
 一旦抑圧されると、ゆがんだ形でいつか、しっぺ返しが来たりする
 
 ライブで歌うと、あるいは瞑想すると、太極拳演舞をすると
 あるいは、キネステティクで、相手の生身のからだに触れると
 自分で自分を押さえていることが見えたりもする