どうして絵が描けない? 恥ずかしい?

恥ずかしいという感情について、今一度考えてみる
   
ともかく、人間が「恥ずかしい」という感情を持つことは確かだ
   
ただ、どのような時に恥ずかしいと感じるかは、人によって、場所によって、時代によって違う
   
 かつて、立って食事する、歩きながら食事するというのは、日本人にとっては、恥ずかしいことだった。(私は、いまだに立食パーティーは苦手だ。)
 駅やバスターミナルで、恋人同士が別れのキスをしている風景は、日本ではめったに見られない。まだ、日本人には、恥ずかしい事なんだろう。
 日本では、おっぱいを出したまま街を歩くことは出来ない。
 江戸時代の日本人は、ミニスカートは穿けないだろう 
    
 生まれたばっかりの赤ん坊とか、幼児は、裸で街を歩いても恥ずかしがらないから、恥ずかしいという感情は、生まれつきでもないということが予想される。
    
 キリスト教旧約聖書によれば、智慧の実を食べ、善悪を知ってから、恥ずかしいという感情が生まれたらしい。
    
 どういうことに恥ずかしさを感じるかと言うのは、教育や文化の結果なんだろう。
    
 恥ずかしいという感情は、行動の抑止力になっている
 善悪の判断に基づいて、「いけないことをすると恥ずかしい、これはいけないことである、だからこれを行うのは恥ずかしいことである、だから、しない」と判断するのだろう
 判断というよりは、条件反射付けられたのだろう
 いけないこと、いいことの判断は、大体は、社会から、条件反射付けられる

 しかし、恥ずかしいと感じていても、行動の抑止力にはならないこともある
 いけないことの基準が、同時にいくつもある場合、恥ずかしくても、それなりに行為する
   
 サンテグジュベリの星の王子様に出てくるアルコール依存症の人がその例だろう

「なぜ、酒なんか飲むの?」
             「忘れたいからさ」
「忘れるって、何をさ?」
             「はずかしいのを忘れるんだよ」
「はずかしいって、何が?」
             「酒のむのが、はずかしんだよ」
     
「もう少し恥ずかしがれよ」と、思う場合がある
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんだよ」と思う場合もある
        
 絵を描くという行為は、ある人々にとっては恥ずかしい行為だ
 下手だから、恥ずかしい、だから描かないというのは、止めたほうがいい
 あるいは、恥ずかしくても、隠れて描けばいい
       
 それと、絵を描くことに対して、上手下手という評価で、条件反射付けすることも止めたほうがいい
     
 戦後、学校の先生たちも、絵の評価をするにあたって、実は、どうやって絵を評価していいのか、自信がなかったのではなかろうか、と今は思う。
 そこで、実物にどれほど似ているかどうか、を評価の基準にすれば、評価は簡単だから、安易に、実物に似ているかどうかを、評価にしたように思う
    
 そんな学校教育の条件反射付けは、はやく抜け出したほうがいい

 丁寧に観て、感じることが、大事だ