西洋かぶれ 食べること 分業

人は何かに<かぶれている>とき、
自分が<かぶれていること>に気がついていなかったりする。
                         
私達日本人は、明治時代に西洋的な視点にかぶれ、
戦後は更に、アメリカ的な視点にかぶれてしまったように思う。
それでいて、かぶれていることの自覚が少ない。
                      
例えば食事のこと
健康を考えて食事する時、
カロリーがどうの、栄養バランスがどうのということを問題にして、
命の繋がりを感じながら食べるということは稀なような気がする
そういうのは精神論とか、修身の領域で生理学とは関係ない、古臭いと思われたりする
じゃ、東洋人はいつも命の繋がりを感じながら食事していたかといえば、
そうとはいえないだろうが、
食べるということを、ただ単にエネルギーの補給とは捉えなかった人が多かったように思う
自分自身が体調を崩してみて、食事のことを改めて考え直してみて、
自分自身が食べ物を採集したり、育てていないゆえ、
食べ物と自分の命の繋がりを見失ってしまっていることをひしひしと感じている
                      
分業によって、生産性は確かに上がったかもしれないが、
プラスの影には必ずマイナスがある。
かつて江戸時代、士農工商という身分制度があって、職業選択の自由がなかったと習った
現在、職業選択の自由はあるにはあるが、
いざ選択してみようとすれば、それほど自由でもない