dance 踊り 神楽 鎮魂 ある日の日記

友人が、町内の小さなギャラリーで、流木を材料にしたオブジェの創作展示会を開いた。
そして、別の友人が、その会場で、ダンスパフォーマンスを行った。
木の床に座り、壁にもたれて鑑賞していた人々に、一緒に踊ろうと友人は呼びかける。
呼びかけに応えて、踊った。
動きは、どうしても太極拳風になってしまう。
というか、丁寧に大地に、床に触れたい、一緒に踊っている人に、壁にもたれている人に触れたい。そうなると、自然と太極拳風になってしまう。
BGMで流れる音楽は、テンポが速く、結局ミックスジュースのようなダンスになる。
それはそれで、面白かった。

ダンスは、踊りともいう。
踊りは「雄とり」だ、という人もいる。対になる言葉は、雌とり、「娶り」だという。つまり、異性への呼びかけが原点だ。陰陽の和合が原点だという。鳥のダンスみたいだが、そういうダンスもあろう。
踊りの原点は「神楽」だという人もいる。神々を楽しませ、一緒に楽しむ。
それに近いが、「鎮魂」を原点に言う人もいる。「盆踊り」なんかがそうだ。
又、それは、瞑想につながってくる。「スーフィーダンス」なんかそうだろう。ラーマクリシュナは踊りながら、三昧になり、恍惚の状態、神との一体に入っていったという。
普段の自分というイメージの枠、生者と死者、この世とあの世の壁を超えるダンスといえようか。

私は太極拳を教えているが、太極拳を習い始める動機として「健康」をあげる人が多い。
そこで、毎回、健康という言葉について語ることから、講座を始める。

「健康の健は、身体が健やかということ。康は、心が安らかということ。
私達はいつの間にか、心とからだを別のものと見ることに慣れっこになってしまっているが、それは便宜上分けられたもので、心とからだは別のものではない」と。

「ゆったりした心は、ゆったりとした動作と呼吸で創られます。」
「寛容もまた、腕と胸の間の緊張を解くことで、あらわれます。」

挨拶や、同意の動作は、文化によって違う。日本では、首を縦に振ることが、同意の意味を表すが、首を横に振って同意を示す文化もあるそうだ。つばを吐きかけることが挨拶の文化があるそうだ。
このように文化によって、まるっきり逆のことが逆の意味を持つことがあるようだが、相手を拒絶する時にからだをリラックスさせ、受け入れる時にからだを固くするようなからだの動き、表現の文化はありえないと思っている。

ダンスは、相手への呼びかけ、相互融合へのコミュニケーションだと思う。だから、先ず踊り手のからだは、より多くひらかれているのが前提だと思う。

 働きかける対象が人間でなくてもそうだ。今は、櫓で舟をこぐ風景を見るのがめったに観られなくなったし、まして体験できることは難しい。私は、舟を櫓でこげるのだが、からだがひらかれていないと、自分の思いが、櫓に伝わることもない。舟や海に伝わりづらい。余計な力が抜けた時、思うように櫓が操れ、舟を操れる。
 
 又、受け手もまた、ひらいている、あるいはひらかれて行くのが、あらゆる文化、芸術、芸能の目指すところではないだろうか。

 だから、表現するものの舞台環境と共に、受け手の観客席側の鑑賞環境も、大事になってくる。芝居の言葉の由来は、屋外の芝生の上で演じられたからだという。

 観る側が、演じ手の働きかけに応じて、固唾を呑んだり、思わず声を上げたり、からだをゆらし、腰を浮かしたり、手を叩いたり、両手を広げ、おおらかな気持ちになったり、泣いたりする、それが相互交流で、本来演じ手も受け手も求めているものではないだろうか。

 だがしかし、日本の、屋内の芸術鑑賞環境の多くは、狭い椅子に閉じ込められているように、自分は感じる。行儀良く身を固めて座り、隣の人との間の肘掛を気にしながら、どうして思わず腕と胸の間の筋肉の緊張が解けるだろう。

 とはいえ、今ある現状、与えられた環境に即して表現するのが、現実的な具体的な、可能的な活動だろう。

 舞台の上で演じられることだけが表現なのではなく、受け手のからだや観照環境を含めた「全体の場」をいかに創り出していくか、ということなのだろうと思う。