熊野ヤゴ太郎 「川底の歌」

この世界に、直に触れながら、その有様を見つめると、
すべてがうつろいゆく
雨水は、岩清水となり、河となり、河は絶えず海となり、
海は又霧となり、霧は雲となり、雲は雨となる
だのに、目を閉じて、言葉を使って、この世の中を思い浮かべると、
河とは別に海があると思ってしまう。
河と海が別のものと思ってしまう。

陽の光と天の水と、風と大地の恵みによって、森が育ち、木が育つ。
大きく育ったその木を、人間が刻み、一時、机や椅子の姿を成し、
使われて、やがてはまた土に還り、木や草になるのだが、
言葉を使って、世界を見つめると、
炭素や水素が集まって、木ができていると思ってしまう。
陽の光や天の水や、風や土とは別に、机というものが、そこにあると勘違いしてしまう。

私のからだの中を、生気と血潮の河が流れる。
この河の流れは、大地を流れる河と同じように、途切れることがない。
大地を流れる河に、絶えず陽の光と天の水が注がれるように、
からだを流れる生気と血潮の河にも、陽の光と生気が常に注がれる。
手を流れていた生気と血潮が、足を流れ、腎臓を流れ、心臓を流れ、肺を流れる。
そして又、手に流れる。流れ続ける。
それなのに、言葉を使って、からだを説明すれば、
生気と血潮は流れを止め、
手と足と心臓が、別のものと思ってしまう。
言葉で表された手足には、生気と血潮が通っていない。
言葉を使って、あなたと私を思えば、
あなたも私も、大地に咲く花であり、
深いところで繋がっているのに、
あなたと私は、別のものと思ってしまう。
人間と大地は別のものと思ってしまう。

全てが移ろいゆく 移ろいゆくものをなんとかしようとする、
しかし移ろいゆくことが生きているということなのだよ
人間よ、なぜ、河をせき止めるのだ、
電気を生み出すためにとダムを作ったが、
大地が、静脈瘤を起こしている、脳梗塞を起こしている。
世界を言葉で切り刻み、刻まれたものが、
元々別のものであったかのように勘違いする。
言葉で切り刻まれた世界は、
血を吸い取られている。
移ろい行くことはあっても、
死などというものは無かった世界に、
言葉は死を持ち込んだ。
ひとつらなりの命を、これ以上、切り刻むのはやめよう。

人間よ、友よ、言葉は大切だ。            
熱いスープや紅茶を飲むときに、器が必要だ。
器には取っ手が必要だ。
取っ手が無いと、熱い命のスープは飲むことが難しい。
言葉は、熱い命のスープを飲むための取っ手だ。     
だがしかし、取っ手を、飲むことはできない。
全ては移ろいゆく、私もまた移ろいゆく、
そしてそれが生きるということだろう

岩清水のような命の水は、直に両手で優しく受けて頂こう。
燃え滾る命のスープは、言葉の器で掬い取って、頂こう。