自由意志・意思について 参院選から思ったこと

 現代人の多くの人々は、朝に目覚め、そして寝床から抜け出します。その後は、顔を洗ったり、トイレへいったり、着替えたり、食事をしたりします。
        
これらの行動は、ひとつひとつ自由意思に基づくものなのでしょうか?
誰かに命令され、強制されたり、騙されたり、洗脳され催眠状態にされている訳ではないから、自分の意志で決定していると、多くの人は思うでしょう。
     
私は、この「自由意志・意思」という言葉に疑問を抱いています。
        
「真に自由意志に基づく行動」とはどういう行動の事を云うのだろうかと。
       
私たちは、子育てをする時や学校や会社などで誰かの行動を変えようとするとき、褒美を与えたり、あるいは罰を与えたりすることで相手の行動を変えようとすることが多いと思います。
        
私たちは、自らの意志で、快をもたらすことを選び、不快となることを遠ざけているつもりでも、実は実験室内の犬のように、条件反射づけられていたり、刷り込まれていたりするのかもしれません。
        
日本に生まれたものが、日本語を話すようになるのは、自然、当たり前、自由意志に基づくものと思ったりしますが、そうとは言い切れません。
        
快不快の判断は、個々が自分の意志に基づいて、生得的に判断しているのではなく、社会的に、全体との関わりの中で行われているのであり、しかも、それを自分の意思で行動していると思い込んでいるところがあるように思います。
       
「学習」にも、生得的に備わった能力を発現するための学習(声帯を使って、音声に差異を発生させること)、すでに与えられた選択肢を身につけるための学習(日本人が日本語を学ぶこと)、選択肢群とは違う選択肢群を見い出したり、創造したりする学習(外国語を身につけたり、学習するということがどういうことか学習すること・メタ学習)があるとおもいます。
        
また、一般常識的には
「理想、目標、目的に向かって努力する」「正しくある」「美しくなる」「清くある」「優れたものとなる」「強くなる」「進化する」「善人であろうとする」などということがらは、「肯定的なこと」とされてきました。
        
一般常識的に「よいこと」とされているがゆえに
そこに落とし穴があるように
私は歳を重ねてから思うようになりました。
       
どのような落とし穴かと言うと
        
まずは「あるべき未来の為に いまがおろそかになる」ということです
        
世界を「明暗」の二つに分け、「明」に価値を認め、「明」だけを求めていけばどうなるでしょう。
        
そもそも「正しい」とか「優れている」という基準をどこにおいているのでしょう
        
一般常識的にということは、「多数者の側」ということであったり
「既に強い立場にあるものの側」ということであったりします。
        
ただ単に学習するのではなく、学習の学習が大切であると思いました。
      
エミール・シオランの言葉
< 意味など、ない。 これは全存在に適用される真理であり、かつ原則でもある。 また、存在が無意味だという意味も 同様に存在しない。 この2つのテーゼは人間が、考えうる限り、矛盾でしかない。 しかし、本当に、「なにもない」>
    
< 考えを突き詰めた状態は、なにも考えていない状態とよく似ている。それは、この世の一切が無意味なものだからだ。無意味とは言い過ぎかもしれないが、自分の命は、この世界は、宇宙は、壮大な「無駄」であることに思える。よって、両者は相違した境地といえる。>
    
昨日までは、早朝ヒグラシが鳴いていましたが、今日からは、アブラゼミが一斉に鳴きはじめました。
セミのように今日をうたっていきましょう。