信じるということ「笑う門には福来る」

k1s2013-03-31

「笑う門には福来る」という諺の意味を、大人なら殆どの人が知っていることでしょう。
 
積極的な意味としたら
(どのような状況の中にあっても、)目の前の事態を深刻がらずに受け止め、適切に対処していると、事態が好転したりする、という意味でしょう。
 
この諺の「意味を知っていること」と、「それを実践すること」は、同じではありません。意味を知っているだけで、その諺を信じていないと、実践しないでしょう。
 
私達は何事かをきっかけとして、将来がとかく不安になって、右往左往したり、暗くなったり、「なんとかしなくっちゃ」と思って、行動したりします。
 
他の人から見るとそう大した理由もないのに不安に陥って、日常生活に支障が出ている状況を、不安症と言ったりします。
 
ところが、他の人から見ても、それなりの状況だと思われるのに、笑っている人も一方にいます。
 
その違いは、「信」としか言いようがないように思います。
 
その信とは、「しゃあないなあ、でもなんとかなる」という自分の想いであったり、弥陀の誓願に基づく決定往生であったり、イエス・キリストを通しての神との新約であったりします。
 
時に私達は、
自分が自分の将来に対して不安を抱いているのに、自分自身の不安と認めることができないで、
子どもやつれあいに投影し、「このままではよくない、私が相手の為に何とかしなくては」、という思いから、相手に支配的な働きかけをしてしまうことが多々あります。
 
困っているのは、不安なのはその本人であるのに、他の人に何か言葉を掛けたり、働きかけたりします。
でもそうすることによって、関係がまずくなったりします。
 
例えばこのような状況です。
(夕飯が過ぎてから、もう2時間も経つというのに、あの子ったらずうっとゲームしている。私が何とかしなくては。)「○○ちゃん、何時だと思っているの、勉強しなさい!勉強しないのなら、ゲームを取り上げるよ!」
とばっちりが、隣にいた夫に向かうこともあります。
「あなたもなんか言ってください!あなたは子どもに甘いんだから!自分だけ良い役して!」
 
脅すこと、罰を与えることで、子どもは一時的にいうことを聞くかもしれません。
しかし、福は遠ざかっているように思います。

自由、放任がいいという話でもありません。
ある人が言いました。「執着というのは<自分が何とかしなくては>と思って関わることである。」と
 
その何とかしなくては、というもとにあるのは、自分自身の不安ではないでしょうか。
 
周りに暮らしている人々の殆どが、不安から行動し、関わっているとき、それがその場の文化・習慣になってしまって、自分の不安がみえなくなったりします。
 
笑う門には福来るの逆バージョンで、「不安の門には、恐れくる」という状況が現れたりします。
そして、その恐れの状況が、実際に不安を作り出してしまったりします。
 
人前であがるまい、とおもうこと自体が、人前であがらせてしまうような状況です。
 
特に啓蒙の時代以後
程度の差はあれ、現代人は、不安神経症に陥りやすい状況にあると私は思っています。
 
大きな神殿をつくったり、お金を必要以上にため込むのは、不安ゆえなんだろうなと思っています。