恋愛、あるいは夫婦愛という概念に付きまとう問題について

「愛」あるいは「恋愛」という言葉があります。一人一人がその言葉に対してどのように意味づけしているのか、その内容を確かめることなく、ある人々は、「愛」は人間に本来誰にでも備わっている能力、本能だと思っていたりします。

 それで、世界中、あるいは歴史のどの時点においても、「恋愛」が存在していると思っていたりします。

 また、人を愛するということに自信がある人ほど、自分の愛に基づく行為を、相手もそうやって、愛に基づく行為であると受け取るだろうと思いがちです。
 
 具体的には、「しつけ」といって子供や生徒に、あるいは配偶者や家族に体罰や精神的圧迫を加える場合があります。

 またある時、自分が抱いている愛、あるいは正義、道徳という言葉への意味付けが普遍的な概念と思いこみ、自分や他者の行為を、それは愛・正義・道徳に反すると責めたりすることがあります。
 
 例えば、北村透谷が「恋愛」という言葉を日本に紹介した時、その恋愛は、精神的な愛を意味しており、性愛、肉体的な愛は含まれていませんでした。
 
 ある国では、結婚する前の婚前交渉や同棲は、普通の出来事であり、別のある国では、許されないこと、あるいは恋愛そのものが禁止されている国もあります。
 
 またある人々は、「見合い」とは、自分で結婚に至るほどの恋愛の相手を見出せなかった人がするものと思っていたりします。
 
 夫婦の仲がうまくいかなくなった時、それは恋愛感情の不足が原因だとし、夫婦間の恋愛感情を高めようと努力をする人がいる一方で、より恋愛感情を抱く人のもとへ走る人がいます。
 
以上のことを踏まえ
私は提起したいことがあります。
それは、

ひとつには
 絶対的な、純然たる(absolute)「愛」というものが存在していると捉えるのか、それともそれは、構成されたこと(relative )、縁起性のことと捉えるのかということです。

二つ目としては
 夫婦生活を続けていくには、持続した恋愛感情が、必要であるかどうかということです。
 一生涯必要という人もいるでしょう。
 若い頃の恋愛感情は冷めていくものであり、それに代わる感情や態度、姿勢、心構えattitudeが必要という考えの人もいるでしょう。
 
三つ目として、
 この問いに対しても、絶対的な正解というものがあるだろうか、ということです。


私は思います。
 理想的な夫婦であろうとすればするだけ、現実と理想との乖離がはっきりし、不満が高くなるように思うのです。
 何もかも語り合えて,わかり合える等ということを目指すと、無理があるように思います。
 でも一方で、やはり人は、虚しさや寂しさを感じることが多々あって、おなじ「人」に分かってもらいたい、という気持ちも確かにあるように思います。いちばん身近にいる人が、その「人」であるに越したことはありませんが、虚しさや寂しさを感じるきっかけを与えるのが、利害を共にする身近な人であることもよくあります。
 
 私のことを理解してくれる人が、すぐ傍にいること(与えられること)に越したことがありませんが、それを求めだすと、それもまた一種の「現世御利益」追求のようになると思っています。
 
 エリー(エロイ) エリー(エロイ) ラマ サバクタニ
 
 「私に苦しみの盃を差し出さないでください。いえ、私の思いではなく、聖旨がなされますように」と、現世での御利益を、諦めた時、即、救いがあると。
 
 夫婦にいつまでも、恋愛感情があるに越したことはありませんが、長年暮らせば、欠点はますます見えてくることでしょう。年齢と共に、柔軟性が増せばいいのですが、(柔軟性はbalanced lifeを送るには、とっても大切です。)、気をつけていないと、あちこち固くなってきてしまいがちです。
 
 私の両親は、戦後すぐに恋愛結婚をしました。私は1954年に生まれました。私がもの心ついたころ、もう夫婦仲はよくありませんでした。恋愛結婚をしたのにどうして、とかつては思ったりしたのですが、今思うに、当時恋愛結婚は、20数%の時代です。両親のそれぞれの資質だけでなく、恋愛をしたものの、新しい時代の夫婦関係を維持していくモデルというものを見出せなかったことも仲良くなれなかった原因の一つかな、と思っています。