縁生ということ 因果、非線形

ある出来事が起こったとき、
そして、その出来事をもう一度起こしたい時や
逆に、起こって欲しくない時、
私達は、どうしてそういう結果が生じたのだろうと、
「原因」を探り、考える
 
様々考えられる原因から、特定のひとつを見い出そうとする
そして、自分が考えた特定の原因でもって、同じような出来事を起こし、
ほらごらん、これが原因だったのだ、と証明しようとする
 
しかし、モノゴトはそんなに単純じゃない
 
あるヒトが、これが原因Aと思うことで、ある出来事Zが生じ
ところが、別のヒトが、これが原因Bと思うことで
同じように、ある出来事Zを起こしたりする
 
あるいは仮説を立てる
 
因果にも、一因一果の考え方もあり、一因多果、多因一果の考え方もある
 
普通、「縁」というとき、多因一果のことをいうヒトが多い
多くの条件(原因や環境、促進因子)が集まって、ひとつの現象が起こるのですよと
 
原因aで結果Aがおこり、原因bで結果Bが起こり
原因aと、原因bが同時にあって、結果A結果Bが起こるだけでなく
予測しなかった結果Cまでおこったりすることがある
 
例えば、ばねばかりに5グラムの錘を載せて、ばねが2ミリ伸びたとする
更に、10グラムの錘を載せると、ばねが更に4ミリ伸びたりする
 
ところが、生命の世界では
A君もB君もC君も、一人一人のときは、とっても内気なんだけど
3人一緒になれば、大胆になり、意外な行動を起こしたりする
ということがあったりする、例えばいじめなんかがそうだ
 
要素還元論や機械論的生命観によって、環境破壊が進み
今新たに、複雑系や、システム理論なんかが研究されている
生命と場所―創造する生命の原理 
何れも、難しい言葉がいっぱい出てくる
才能ある人は、研究を続けていくのがいいと思う
 
しかし、現に今ここに生きている私にとっては、
全てが説明されなくてもいい、と思うこともある
 
私は、今生命の大河を泳いでいる
泳いでいると同時に流されている
この生命の河は、私を流すだけでなく、いのちを注ぎ込む
そしてやがて、私はいつか、私というシステムが崩壊し
この河の流れのひとつになってしまう
 
私は、エゴの塊である、
そのエゴの塊である私に、世界は慈悲の御光を注いでくださった
 
この文章は、事実でも、真理でもない
私が勝手に書いた文章だ
世界が慈悲の心を持っているかどうか、私は知らない
 
だけどやっぱり、慈悲の御光があると私は思う
タイで赤痢になって死に掛けた時
優しく包んでくれたのだと思う
 
慈悲の御光というほか、私は言葉を知らない
 
生きているということ自体が不思議だ
そして、やがて、私というシステムは崩壊するだろう